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てにすまん 高西ともブログ ブログテーマ:過去の思い出

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上京物語

[過去の思い出] 投稿日時:2010/11/04(木) 10:25

俺が上京してテニスコーチになったのは
18歳の頃。
もちろん会社では一番年下で下っ端扱いだった。
でも年下ってことだけじゃなく、テニスのレベルも
一番下。
俺より弱い人って言ったらフロントのお姉さんくらいな
もんだったよ。
 
なので、毎日毎日自分より強い人達と練習が出来るという
環境になったんだけど、もともと選手志望ではなく
コーチとして一人前になりたい・・・と思っていたから
けっこうそういう環境が最初はストレスだった。
先輩達は礼儀や挨拶なんかも厳しかったしね。
 
でも上京したばかりでお金は無いし、住む所も会社の寮だから
逃げられない。
すぐに大阪の実家へ帰ることなんて絶対嫌だから
とにかく余計なことは考えずに、先輩達に言われるまま毎日毎日
頑張ってテニスの練習とレッスンを頑張った。
 
結局は選手の道に入り、選手活動を本格化して行くことに
なるのだが、その決意を持てるようになるのに1年以上かかった。
その1年間は長かったけど、会社の寮に入っていたのと貧乏で
お金が無かったってことは大きくプラスに働いた気がする。
お金が無いから仕事の時間以外もテニスかトレーニングしか
することないし、会社の寮だから先輩達と帰宅後も一緒に
過ごさないといけないので、皆が持っている価値観を徐々に
理解し、共有できるようになっていった。
 
その時の「俺も選手として頑張りたい!」と思うようになった
ことは、その後の俺の人生を大きく変えた。
その時の決断は最高だったと思うよ。
だから今でも「その時、貧乏で良かった」って思う。

レベルを上げてくれる人を探せ!

[過去の思い出] 投稿日時:2010/11/01(月) 18:51

テニスの上達って右肩上がりで順調に
上がり続けるもんじゃない。
横ばいでなかなか上達しない時も
あれば、一気に上がる時もあるし、場合によっては
下り続けることも・・・。
 
俺のテニス人生は、結果的にテニスを
始めた高校生の時に比べて格段に上達させる
事が出来た。
もちろん、俺も上達と低迷の繰り返しはたくさん
経験したよ。
 
でも結果的にはランキングも二桁になり
プロテニス選手として活動できるまで上達。
当初はここまでレベルアップ出来るとは思っていなかった
ので、効率良く上達した方だと思う。
 
これまでのレベルアップと挫折の繰り返しを
思い返すと何だかパターンがある気がする。
その一つが海外へのテニス留学なんだけど、その前に
「よし!海外へ武者修行に行くぞ!!」と決意させてくれる
人達に出会ったことが大きい。
 
今まで、大きく分けると3回の長期海外留学をしている。
アメリカ1回、スペイン2回だ。
あとは1週間単位の海外だから、ちょっと留学とは言えない。
最初のアメリカは、同じ会社だった先輩選手の影響。
日本人だけど、ちょっと周りの人間と違って「自分」を持ってて
カッコ良く思えた。
 
その後のスペイン留学は、日本のトッププロ達にも
コーチしている方から
「君はもっと高いレベルでやるべきだ!」と言われたこと。
そして2回目のスペイン留学は、最初のスペイン留学で
出会ったコーチや選手達に「また戻って来るんだろ?」と
言われたこと。
 
やる気とか根性なんて、一瞬で燃え尽きてしまう事が多い。
でも、自分のやる気意外に周りからの応援や刺激が
あれば、その活動力は驚異的なものになる。
そんな刺激をくれる人を見付けることは大事だよ。

応援してもらいましょう

[過去の思い出] 投稿日時:2010/10/27(水) 11:24

初めてJOP大会で優勝した時の決勝は
コートの周りに100人くらいのギャラリーが
観てくれていた。
その日は決勝戦しかないから、その後にジュニアの
大会も開催される・・・ということで、その参加者の
ジュニア選手とその御両親達が大部分。
 
もちろん俺の応援に来てくれた人達もたくさん
いたんだけど、とにかく100人以上の人達が
俺の試合を観戦してくれる・・・という喜びと
決勝戦と言う緊張感、それが混然一体となって
とにかく最高の気分だった。
 
でも高校生の頃は試合を観られるのが
好きじゃなかった。
まず、俺の父親がテニス強かったから、大阪で
試合に出ると「あれ、高西さんの息子らしいよ」と
よく言われたんだけど、そんな強い父なのに俺の
テニスは当時弱かったから、自信なんて持てなかった。
 
でもある時を境に「俺のテニスを観て!」と思うように
なったのだ。
それは、自分のプレースタイルが見付かった時。
もちろんプレースタイルは今までコロコロと変わって
来たんだけど、その都度「俺は今、こういうスタイルで
テニスやってます!」と胸張ってプレーしてたからね。
 
プレースタイルが決まると、試合中にやるべき事が
決まって来るので、集中しやすい。
そうすると、迷いなく堂々とプレー出来るから結果も
出やすくなる。
結果が出やすくなると、当然もっと気合入れて頑張れるし
そういう姿を多くの人達に観てもらいたいと思うようになる。
 
そして多くの人達に観られている喜びを感じられると
自分でもびっくりするようなプレーが本番の試合で
出来るようになるんだよ。
皆も、自分の頑張る姿を誰かに観てもらおう!!
応援してもらえる喜びは、自分を変えるキッカケとなるのだ。

プロになれる大発見!?

[過去の思い出] 投稿日時:2010/10/19(火) 08:12

子供の頃、小児ぜんそくだった。
今も花粉症シーズンや季節の変わり目に
喘息の発作が出てしまう時があるけど、
幼稚園の時、小学校低学年の時はとにかく
激しい運動するとゲホゲホ、ゼーゼー咳をしては
苦しんでいた。
 
病院に通って治療すると同時に
「体力を付けさせなアカン!」とばかりに、両親は
俺に徹底して運動をさせ、体力を付けさせた。
空手、水泳、ソフトボール・・・・。
でも小学校3年生の時に、体力を付ける・・・というのと
関係なく、お友達皆が所属していたサッカーチームに
入りたいということで、自らサッカーも加えて頑張り始めた。
 
もちろん最初は広いサッカーコートを走り回るだけで
発作を起こしていて、厳しかった。
でも父には「発作起きたぐらいで休むな!」と言われ
咳止めによって頭が朦朧とした状態でもサッカーには行かされた。
とにかく親は「喘息に負けるな!」という態度で甘やかしてもらえなかった。
 
そうなると、俺の方としては「いかに発作を起こさないか」という
ことをその頃から真剣に取り組み始めたのだが、6年生の頃
遂に発作を起こさない方法を見付けたのだ。
それは・・・・呼吸法である。
 
発作を起こす時は決まって口で息を吸って、吐いて・・・としていたが
それだと呼吸のリズムも乱れるし、呼吸法としてはとても合理的と
言えない。
リズムが乱れると発作が起きる。
だから笑い過ぎも呼吸が乱れて発作が起きていた。
 
以降、鼻で吸って口で吐く・・・という習慣を身に付け現在に至る。
それにより発作の回数は激減。
もちろん今でもその呼吸法でテニスをしている。
でも小学6年生で発見したその呼吸法、実はアスリートが競技やる時の
呼吸法なんだよね。
俺がもし喘息じゃなかったら、この呼吸法は見付けられなかった。
見付ける必要が無かったからね。
となると、俺は今頃プロテニスプレーヤーにはなれていなかった
かもしれない。

試合復帰

[過去の思い出] 投稿日時:2010/10/14(木) 08:17

以前、このコラムでも現役時代、試合で靭帯断裂した話を
書いたんだけど、その怪我で当然その後テニスは
出来なくなった。
 
でも靭帯断裂と言っても、足の裏の土踏まずの部分を
支えるアーチ部分しか断裂していなかったので、思いのほか
復帰は早く、次の週にはコートに立ってレッスンをスタート。
もちろん走れないので、生徒さんには「ここにちゃんと打って!」と
言って俺は打つだけ。
 
すると、怪我から2週間で徐々に踏み込んで打てるようになってきた。
意外と打てるようになった事に驚いた俺は、11月には
全日本選手権があるので、その次の週にエントリーしていた
大会をキャンセルしないで出場することにしたのだ。
 
踏み込めると言っても、動き回れる訳ではない。
前後左右、一歩ずつくらいしか動けない。
でも試合会場って独特な雰囲気があるし、そこに立って
自分が選手でいることを自覚していないとモチベーションが
持続できない・・・と思って焦っていたのだ。
 
もちろん会場に現れた俺を見て、他の選手や大会運営の
人達はびっくり。
「あれ?靭帯切れたんじゃなかったの?」
「いや、出来る範囲でやろうと思いまして・・・・」
当然一回戦の相手選手は喜んだ。
だって走りまわれない相手なんだから。
 
そしてシングルスの試合スタート。
相手選手は若手で元気いっぱい。
良いショット打って来るけど、意外とコースは荒い。
俺はもちろん前後左右一歩だけ動いてボールを取る。
それ以外は追わない。
だって動けないんだから。
 
でも取れる範囲のボールをとにかくノーミスで返球し
その返球するコースを色々工夫していると、いつの間にか
相手が振り回され、相手のボールは全て俺のいるところしか
返って来なくなった。
 
相手選手も「あの人は怪我で動けない!」と思い過ぎたのか
焦って一発エースばかり狙ってミスも多くなり・・・そして
俺が勝ってしまった。
でも残念ながら2回戦は相手に冷静なプレーをされて
撃沈・・・・。
 
でも試合のドキドキ感、相手とのやり取りのワクワク感、
勝った瞬間の喜び・・・そういったものを得られる大会に復帰できた
ってことがスゴイ嬉しかった。
 
残念ながらその年の全日本選手権の予選までには
本調子には戻れず悔しい試合内容で敗退したが、それでも
コートに立てる喜びを怪我をキッカケに感じるようになり、そうなると
一戦一戦大事に戦えるようになった。
もちろんもう怪我は沢山だけどね。
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