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てにすまん 高西ともブログ ブログテーマ:過去の思い出

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世界一のアシスタントコーチ

[過去の思い出] 投稿日時:2012/09/22(土) 15:30

テニスコーチの派遣会社に入社したのは18才の時。
最初はなかなかレッスンを持たせてもらえず、いろんな
コーチのアシスタントをしながら学んでいくんだけど、
19歳になる頃にはアシスタントを使いながら、
自分のクラスを持つことが出来た。
アシスタントは学生のアルバイトコーチ・・・と言っても
俺も学生と年齢は変わらない。
若造二人で元気よく勢いだけのレッスンをやっていたよ。
 
レッスンは一期8回のレッスンで3ヶ月くらい。
アシスタントの学生コーチは入れ替わりやすいのだが
途中で担当が変わるのは良くないので、その期間は
頑張ってもらうんだけど、ある一期間だけ、どうしても
あるナイタークラスのアルバイトのアシスタントコーチが
一人見付からない・・・という事態になってしまった。
もう明日にでも新しい期のレッスンが始まるって時に
ヘッドコーチから「アシスタント、決まったよ!」と連絡があり、
レッスンに行くと、そこにその期の相棒となるアシスタントが
「お世話になります!よろしくお願いします!!」と
ニヤニヤしながら立っていた。
 
そのアシスタントコーチは・・・なんと、12歳も年の離れた
いつもお世話になっている先輩コーチだったのだ。
アシスタントコーチが見付からないので、一期だけでも
良いのでやってくれと、会社から依頼があったらしいんだけど
経験豊富だから当然レッスンは俺より上手いし、何よりテニスも
俺の100倍以上上手いんだよ、その先輩コーチは。
しかも時給まで俺の倍以上。
なんでアシスタントがチーフよりも高いんだよって思いながらも
全8回のそのクラスのレッスンが始まった。
 
しかしその先輩コーチ、「高西、俺がアシスタントなんだから」と
言って、まず生徒さんにやってもらう準備体操の号令を、
毎回やってくれるんだよ。
本当は下っ端の俺なんかがやらなきゃいけないのに。
体操が終わると「では高西コーチお願いします」と言って
先輩コーチは後ろに下がり、そこで俺が
「皆さん、こんばんは!!」と偉そうに登場するのだ。
 
レッスンのメニューも俺が課題と練習メニューを考える。
チーフコーチなんだから当たり前なんだけど、先輩の前だから
「なに?この練習は・・・」なんて突っ込まれるのをビビっていた。
でも「高西がメインなんだから、堂々とやれよ」と一切何も
文句言わず従ってくれたうえに、つまんない練習メニューでも
見事に盛り上げてくれるんだよね。
さすが先輩コーチって感心することが多かったよ。
間近でそんなレッスンテクニックを見せてもらったのは本当に
勉強になったけど、何よりも若輩者の俺をちゃんとチーフコーチ
として扱ってくれたことが嬉しかった。
準備体操もやってくれたしね。
 
その代わり、レッスンの課題や内容は好き勝手やらせて
くれる代わりに、全てがこっちの責任となる。
アシスタントが同い年の学生コーチだと、なんとなく決めて
勢いとか元気で楽しませていたけど、先輩コーチの目が
あると、「果たしてこの練習にどれだけ効果があるのか」を
深く考えるようになった。
だって「高西、この練習メニューは何が目的?」って聞かれたら
即座に答えられなきゃダメだからね。
 
そんなスーパーアシスタントが付いてくれたおかげで
レッスンは大盛り上りで、生徒さんも凄い喜んでくれた。
でも当然、人件費のこともあるし、そんな先輩コーチの
アシスタントは一期限りで終わってしまった。
でも俺にとってはとても勉強になる3ヶ月だったし、大きく
成長できた期だったよ。
そして俺も後輩が出来た時には、こういう先輩でありたいって
思ったもんだ。
 
そして、次の期には無事見付かった新しい学生の
アシスタントが来てくれた。
その新しい学生コーチは、頑張ってはくれたんだけど
不幸なことに、前の期に担当したアシスタントが
素晴らしすぎてハードルが高くなってしまい、生徒さんからは
なかなか好評を得られなかった。
新しいアシスタントにとっては不幸なことだけど、
彼もまたそれで揉まれたと思う。
それにしても、世界一のアシスタントコーチだったな。

頑張れ!ラッキールーザー!

[過去の思い出] 投稿日時:2012/08/14(火) 13:41

ラッキールーザーって知ってる?
予選で敗退した選手でも、その後開催される本戦の一回戦で
出場する予定だった選手が欠場したとき、その枠に入れるのが
ラッキールーザーというシステム。
このラッキールーザーにはテニスの勝負と違ったまた
別のドラマがあるんだよね。
 
まず予選決勝で敗退した時から、このラッキールーザーの
ドラマは始まる。
負けて本部に行くと、割り箸が入れてあるボール缶を
「はい、どうぞ」と目の前に出される。
とりあえず、敗退したショックを一旦忘れて、敗者復活の新たな
希望を胸に気合入れて割り箸を一本引く。
もちろん欲しいのは「1」なんだけど、「4」なんて出ると
微妙なんだよね。
1番とか2番であれば、本戦選手の一人や二人、欠席することが
よくあるから期待できるんだけど、4番とか5番だと難しい。
遠くで試合する時なんて特に、ラッキールーザー枠を狙って
わざわざ本戦に行くかどうか迷う。
 
俺なんて兵庫の試合へラッキールーザー1番目として東京から
行ったのに、結局本戦選手全員がきっちり参加したので、
出場出来ず、大きなショックを受けた思い出がある。
まさかわざわざこんな遠くまで来ておきながら、1番なのに入れないとは
と自分の運の無さを恨んだけど
考えてみれば、一度負けた選手なんだから、運の無さを恨む前に
予選決勝で負けた試合を反省しなきゃいけないんだけどね。
 
しかもラッキールーザーとして大会会場にいることって
なんか悔しいのだ。
「あれっ?ラッキールーザー?」
なんて本戦出場選手に言われるとムカッって腹が立つ。
特に予選決勝で自分を負かした相手に会うと
なんか見下されている気持ちになるんだよね。
ま、それは単なる被害妄想なんだけど、虚しい気持ちで
本戦選手の欠場をジッと待ってないといけないのだ。
でも無事にラッキールーザーで本戦に入れると、まるで
予選を普通に勝ち上がったかのように、急に堂々となれるから、
人間って分かりやすいもんだなって思う。
 
でも選手って誰もがラッキールーザーとして試合会場に
いなきゃいけない時期ってあると思う。
予選の最初で負けているうちはラッキールーザーの優先順位も
ものすごく低いから、最初から諦めて本戦会場に行かない。
でも段々勝てるようになって、予選決勝まで勝ち進むように
なると、初めてラッキールーザーとして本戦会場に立てる。
出場する権利は当然空きがないと得られないけど、
ラッキールーザーとして本戦会場に立つ権利を得るってことも
ある意味立派な結果だと思う。
そして出場できる可能性が少なくても、ラッキールーザーとして
地道に本戦一回戦に現れる選手は、その分チャンスを拾って
それを生かしているんだよね。
 
予選負けはしたけど、それでもまた復活できる
ラッキールーザーというシステムは、あと一歩で本戦出場できる
ところまで昇ってきた選手にとっては、本戦出場枠が得られなかった
としても、「本戦会場体験チケット」みたいなものなのかもしれない。

青森遠征ドッキリ

[過去の思い出] 投稿日時:2012/08/09(木) 02:41

現役の頃、テニスの遠征は楽しかった。
大会に出場することはワクワク感があったし、そういった
緊張感の中で勝ち進むことが出来れば、なお嬉しいからね。
それから、ずっと選手活動を続けていると、選手仲間も
増えてくるので、そういった選手達と試合した後練習したり
ご飯に行ったり温泉に行ったりすることもまた遠征の醍醐味だった。
 
そんな遠征で青森に行った時の話。
大会会場はアジア大会用に作られた20面以上ある立派な
施設で、宿泊も可能なので出場した選手はそこに滞在していた。
というより、周りは殆ど何も無い田舎なので、試合、練習、
食事・・・とその施設に缶詰状態。
皆、飛行機で来たからちょっと外へドライブって訳にもいかない。
毎晩、食事終わった後は選手達で集まってトランプしたり
雑談したりするしか楽しみはなかった。
 
試合が進んでいくと当然負けた選手は帰っていくので、
段々人数は減っていく。
そうなると面倒なのが翌朝、試合前に行うアップの相手の確保。
だいたい毎朝同じ相手と試合前に練習するんだけど、その相手が
負けて帰ってしまったら、勝ち残っている中から新しい相手を
探さないといけない。
その大会でも勝ち残り、明日は準々決勝という日の夜、
俺と後輩の岸本選手、それから当時荏原でコーチをしていた
一つ歳下の大西選手と3人で集まって、長い暇な夜を一緒に
過ごしていたんだけど、そこで翌日朝の練習相手の話になった。
 
俺は岸本選手と一緒に練習すると決めていたのだが、大西選手は
朝の練習相手が決まっていないらしく「誰かいませんかね?」と
我々に聞いてきた。
まだ勝ち残っている選手をピックアップしていくと、当時リコーに
所属していた八木選手がもしかしたら探しているかも・・・という話に。
しかし大西選手はそこで「ちょっと八木さんって怖くないですか?」と
言ってきたのだ。
確かにキリッとした表情でクールな八木選手は、本人のことを
あまり知らない選手には、そう見えなくも無い。
「いや、八木さん無茶苦茶良い人ですよ。」と岸本選手。
「そう?でもちょっとびびるな~」と大西選手。
 
そこで岸本、チラッと俺の方を見てから
「じゃあ今から八木さんに電話をかけるので、大西さんが直接八木さんと
話して下さいよ」と彼はおもむろに携帯電話を取り出した。
この「電話をかける」と岸本が言ってチラッと俺の方を見る
というのは当時、俺たちがよくやっていたイタズラの合図。
その合図と同時に俺は部屋をソっと出て外に行って外でスタンバイ
していると、案の定岸本から俺の携帯に電話が掛かってきた。
「おぉ、八木だけど・・・」と俺はぶっきらぼうに電話に出る。
「あ、あの僕、大西です。明日の朝の練習相手を探しているので
岸本君の電話を借りて電話させてもらったのですが・・・」
電話の向こうにはビビリながら喋る大西選手の声が。
大西選手は完全に俺の声を八木選手と信じきっている。
八木選手本人はこんな無愛想じゃないのに、大西選手が
勝手なイメージを持っているので、それに合わせて俺は
だるそうな声で話を続けた。
 
「おぉ、いいよ。じゃあ明日の朝、7時にコートで。」と俺。
「え!?7時ですか?試合は10時からですよ!?」
驚く大西選手。
だって10時試合スタートだったら、早くても9時頃にアップを
始めるのが普通だからね。
しかし、
「八木さんだったら朝7時から有り得るな~」
大西選手の声の後ろで岸本も大西選手を信じ込ませようと、
俺の話に合わせてくれる。
「わ、分かりました。でも朝7時だとコートの管理人がいないので、
ネットがまだ無いと思うのですが・・・」と大西選手。
「おぉ、ネットが無くてもいいよ。」と、八木選手に扮した俺。
「えぇ!!ネットが無いコートでもいいんですか!!???」と大西選手。
「八木さんなら、ネットが無くても練習しそうだな~」と岸本の声。
「分かりました!!じゃあ明日の朝、7時からネット無しで
練習お願いします!!!では失礼します!!」
 
電話を切った後、俺は二人のいる部屋に戻ったのだが、そこには
今一つ状況が飲み込めなくて呆然と突っ立っている大西選手と
一生懸命笑いをこらえている岸本がいた。
「大西は明日の練習相手、どうなった?」と俺が大西選手に尋ねると
「八木さんが明日の朝7時から、ネット無いコートで練習してくれるって
言ってくれたんですが、これどう思います?」
「いやぁ、八木君ならストイックな選手だから有り得るよ、ねぇ岸本?」
「そうですね~、有り得ますねぇ~」
 
遠征は悔しい思い出も多いが、それ以上に楽しい印象が残っている。
普段、試合でも対戦する機会の多い選手同士だからこそ、オフの時は
楽しく過ごせる仲間なのだ。
結局大西選手にはこの後、ネタばらし。
そのままだと朝7時にコートへ行きそうだったからね。
おかげで一生の思い出に残った青森遠征となりました。

喘息という逃げ場所

[過去の思い出] 投稿日時:2012/08/06(月) 17:43

子供の頃、小児喘息を患った。
今も花粉症の時期、季節の変わり目、
風邪で体が弱っている時には発作を起こす。
はっきりとは覚えていないが、喘息の発作で苦しい
思いをしたのは幼稚園くらいからだったかな?
近所の子供たちとふざけ合って走り回るとすぐに
発作を起こし、その日の夜は母に背中をずっと
さすってもらいながらも苦しくて眠れない・・・なんて
何度もあって、その経験は未だに覚えている。
 
病院にも週に一回通い続けた。
母がこぐ自転車の後ろに乗って、家から数キロ離れた
病院に朝早く向かうのだ。
病院では必ず注射を打たれるが、毎週のことなので慣れっこに。
検査の時には腕に10本くらい打たれたし、太いストローみたいな
針で血を抜かれるのもお尻に打たれるのも平気だった。
そして病院の帰りには必ず母は「頑張ったね」とお子様ランチとか
パフェとか、好きなお店で好きなものをご馳走してくれた。
 
小学校に入ると、病院には一人で行くようになった。
行く時は、出勤する父の車に乗せてもらい、
帰りはバスで学校に遅刻して向かう。
学校には4時間目の途中くらいに着くのだが、誰も歩いていない
校舎を堂々と歩き、ガラッと教室を開けた瞬間、クラスの
皆に注目されるのは快感だった。
「俺は病人だ」
そう思うことに小学校の頃、むしろ優越感さえ覚え始めていた。
喘息の発作は苦しかった。
だが、それを皆が「かわいそう」と思ってくれるし、優しくしてくれる。
喘息は特権のように感じていた。
 
そんな気持ちが自分自身へ甘えをもたらした。
健康のためと習わされたスイミングも「発作出てる」と言って
ずる休みしたこともある。
とにかく苦しみながら乗り越えなきゃいけないって時に
喘息を理由にして尽く避けていたような気がする。
3年生の頃、習い始めたサッカーも、小学校の間はレギュラーに
なれなかった。
でも、悔しくなかった。
だって俺は喘息患者なんだもん。
 
しかし唯一父は違っていた。
まるで俺が喘息を持っているのを知らないかのように
発作が起きても「サッカーの練習行ってこい!」って言って
ゼーゼーしている俺を外に追い出したし、俺の前で平気な顔して
タバコを吸っていた。
タバコはどうかと思うが、発作が起きてもそんなことは気にせず
父は俺にサッカーの結果を求め続けた結果、小学校6年生頃から
俺は、喘息ときっちり向き合うようになっていった。
どうすれば激しい運動をしても発作が起きないように出来るか。
そして喘息を治すためにはどうすれば良いのか。
 
中学校に入ると、もう喘息は特権とは思わなかった。
むしろ、俺は普通の人達と同じように運動が出来るんだという
ことを、周りの人達に認めさせようとしていた。
体力が付いてくると、発作は年に数回ほどしか起きなくなったが
もうそれを同情してもらい、優しくしてもらおうとは思わないどころか
発作が起きたことで運動を制限され、それによって自分の評価が
落ちることに苛立った。
高校に入ると、発作が起きた状態でも長距離トレーニングを
全力で行ったりしてみた。
もう俺の中では喘息は無視するようにしていたのだ。
 
結局、俺は高校卒業してからテニスの道へ入り、選手として
活動するに至った。
そこは結果しか評価されない世界。
自らそういう世界に身を置き、その活動を10年以上も
続けられたことは本当に幸せだと感じる。
それも、喘息で苦しんでいる俺の前でタバコをスパスパ
吸っていた父のおかげかもしれない。
 
今、世の中にはもっと大きな障害を抱えながらも頑張って
スポーツしている選手たちがいるが、そう考えると彼らの
障害の部分に目を向けながら応援することはどうかと思う。
あくまでも一人の人間としての結果を評価すべきであり
「大変なのに頑張っているね」という応援は単なる同情である。
もしかしたら、その同情によって甘えていた小学校時代の
俺のように、優しくしてもらうことで満足してしまう人間が
生まれてしまうこともあるかもしれない。
 
俺も一歩間違えば、そのまま何事にもチャレンジせず
「どうせ俺は」の人生を送っていたかもね。
障害を乗り越えて強くなった人もいるが、障害に心を
委ねてしまった人も多いんじゃないかな。

テニス人生で一番暑かったあの日

[過去の思い出] 投稿日時:2012/07/30(月) 10:17

暑さは嫌いじゃない。
真夏の炎天下の中、3時間も4時間も粘り続けて
勝利を手にした思い出はけっこうあるかも。
暑さを嫌がっている相手を前にすると、もっと
暑くなれ~って願ってしまうほど。
でも暑さは慣れだよ。
毎日炎天下の中で練習していたら、多少の暑さは
気にならない。
ということは、暑さに強い!と言い切る俺も、ちゃんと
暑い中毎日コートに立っていないと、暑さにやられて
しまうってことだよね。
 
でも現役の頃は、毎日レッスンやら練習で常にコートに
立っていたから大丈夫・・・のはずだったんだけど、
スペインへ初めて行った24歳の頃、コートに立てない日が
続いてしまった。
その理由は、日本からスペインに行くための手続きやら
移動のため。
本当はその年の3月に行くはずだったのだが、ビザが
なかなか発行されず、なんやかんやと出発は5月の中旬を
過ぎてしまったのだ。
ビザの発行を待っている間は、当然日本で練習したり
レッスンしたりして待っていたんだけど、スペイン大使館から連絡が
あれば、何度も足を運ばないといけなかったり、荷物を実家へ送ったり
持って行ったりしないといけなかったりと、なかなかしっかり
練習出来る状況ではなかった。
 
毎年夏が始まる前の5月に、まずはしっかり暑さに
耐えられる下地を作らないといけないし、ここで暑さを
覚えると汗腺も開いて汗もしっかり出てくれるので楽になる。
でもこの大事な時期に、ビザの申請と出発の準備に
追われた状態で結局バタバタと練習不足でスペインに渡った。
行った先は地中海に面したバルセロナ。
5月といえど、地中海性気候のこの場所は、もう夏に近い
暑さを感じたのを今でも覚えている。
その時点で一週間ぶりのテニスだったし、暑さに慣れる暇が
無かった俺の体はとにかく「暑い!!!!!!」
って強烈に感じた。
 
そんな暑さの中俺を待っていたのはスペインドリルの洗礼。
ゆっくりなボールなんだけど、コートの端から端、前へ後ろへ
何十球と動かされては打ち、打っては動かされるという練習が
ずっと続くのだ。
最初はほんの10球くらいで終わると思っていたら、
打っても打ってもコーチからのボール出しは終わらない。
「なんだこれ?一生続くのか・・・?」
そんな不安を感じると暑さは余計に辛くのしかかってくる。
でも新天地でコーチに頑張っている姿をアピールしたい俺は
とにかく頑張った。
頑張ったけど本当に「なんて暑さなんだ」って辛く感じた
スペイン初日の練習でした。
 
でもやっぱり7月、8月になると、その時と比べ物にならない
ほど暑くなった。
だけど、やっぱり初日の練習の暑さの方が強烈に感じたし、
帰国してからは、湿度の高い日本の方が実は、暑さが厳しいんじゃ
ないかって思ったけど、スペインの初日よりは楽に思った。
新天地で気合入りすぎて空回りの部分もあったかも
しれないが、のちのち思ったのは、4月5月の練習を怠ると
5月の暑さでもバテてしまうんだってこと。
夏の炎天下でしっかりパフォーマンスするには、暑さに耐える
下地をしっかり作っておくことと、スペイン人のコーチは
永遠にボールを出し続けるという覚悟をしておくこと。
真夏の前にハードな練習で毎日しっかり汗をかいておこう。
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