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てにすまん 高西ともブログ ブログテーマ:過去の思い出

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女子選手にモテモテinスペイン

[過去の思い出] 投稿日時:2013/03/18(月) 01:34

24歳の時、スペインのバルセロナに1年間滞在して
選手活動を行っていた。
ま、当初は選手活動と言っても
「スペインに行けば何とかなるかも」って感じの安易な
気持ちだったから、所属先のアカデミーのハードな練習に
付いていくのがやっとで、遠征とかツアーどころかテニスの
調子がどんどん落ちていき、スペインに渡った半年後には
どん底状態まで落ちて下手になっていた。
試合に出ても勝てないし、練習のクラスも落とされて12歳の
男の子なんかと一緒に練習させたりして、精神的にも辛い
日々を送っていたんだよ。
 
しかしそのどん底状態でも腐らず、毎日アカデミーに行って
全力で練習して、トレーニングすることを心掛けて頑張った。
その結果、徐々にそこからテニスが成長して結果も出せるように
なってきたのだ。
ま、こう書くと「我慢強さ」や「精神力」をアピールしているように
思われるが、本当は「強くなって来るぞ!」って言って日本を
飛び出して来たから、「このまま帰国するわけにはいかない・・・」って
思って焦っていただけなんだけどね。
 
プレーも更に成長して試合の結果も徐々に出るようになると、
練習のクラスも上へ入れてもらえる。
ATPランキング(世界ランキング)を持った選手とも練習が
出来るようになるし、そういった選手達のツアーコーチをしている
コーチのレッスンも受けられる。
もちろん更にハードな練習となるのだが、どん底から這い上がって
強い選手たちがいるクラスに入れてもらえた喜びがあるから、
ハードな練習はむしろ心地よい苦しみだった。
 
そんな状況になると、色んな選手から「練習しようよ」って声を
かけられる。
午前中の練習はコーチの管理の下でコーチに組まれた相手と
練習をするんだけど、午後はコーチに
「あの選手と二人でやりたいんだけど」って言えば「いいよ」となる。
ありがたいことに、俺よりも明らかに強い選手からも声を掛けてくれて
練習を一緒に行うことが出来た。
でもその練習をする選手の中に、女子の選手が段々増えてきたのだ。
しかもWTAのランキングが高い選手。
「前回のウィンブルドンはね」とか「年明け、オーストラリアンオープンなの」
なんて話を平気でするような選手が「トモ、一緒に練習しよう」って
声を掛けてきてくれるのだ。
 
そんな中にはクズネツォワ選手やアランチャ・サンチェス選手なんかも
いたんだけど、アランチャなんか午前中の練習の時から俺の担当していた
コーチに「トモをもらって良い?」みたいな交渉をして引っこ抜いてくれた。
それはとても光栄だったよ。
彼女は当時、もう世界ランキング20位台くらいまで落ちていたけど、
元世界3位の選手だから、プレーセンスは抜群だった。
ショットはそんなに速くないんだけど、フットワークと配球の仕方が
勉強になった。
何よりもネットへサッと出てくるタイミングとパターンは、思わず
「なるほど!!」って声に出してしまうような間なんだよね。
 
そんなアランチャにある時聞いてみた。
「なんで俺をヒッティングパートナーに選んでくれるの?」
するとアランチャはこう答えてくれたんだよ。
「まずトモは、何時間一緒に練習しても絶対に文句言わないし
動きもショットの質も落ちない。
それから調子悪くても怒ったり喚いたりイライラしたりしない。
でも一番良いところは、女子の選手のショットに似ているところ。
他の男子選手だとパワーがあり過ぎて練習にならないんだけど
トモは丁度女子選手っぽいのよ(笑)」
 
なるほど、だから他の女子選手達からもヒッティングの依頼が
多く来ていたんだ・・・。
ちょっとそれはショックだったけど、でも俺は確かに最初の半年間は
海外でプレーしていることを意識し過ぎて打ちまくろうとしていたのは
確かで、それよりももっといい動きすることやディフェンス面の強化、
そして戦術面を鍛えることを意識したのが半年経ってから。
それから俺の結果が出始めたのだ。
でもそれ以外の精神面、体力面のことが評価されたことは
嬉しかったね。
 
あまりに嬉しかったから、アランチャが評価してくれた、精神的安定、
体力、フットワーク、そして一生懸命打っているけどちょっと遅めの
ストロークショットはその後の俺のテニスの主流となり、この路線で
更に結果を出せるようになった。
アランチャ直伝のネットプレーも、その後オールラウンドプレーを
し始めた時に大いに参考にさせてもらったしね。
テニスで女子選手からモテモテになるには、体力、忍耐力、
フットワーク、そして・・・女子っぽい力強さのストロークが必要。
エースばっかり狙ってたら嫌われるから要注意。

俺をテニス選手にしてくれた先輩

[過去の思い出] 投稿日時:2013/02/19(火) 13:47

18歳の時上京して入社したのが、テニスコーチ派遣会社の
テニスユニバース。
まだ10代のうちに入社したから、色んな先輩方にお世話になった。
特に最初の頃はテニスも下手っぴだったから、お世話になる
というよりも、一から育ててもらったって感じだね。
 
そんな先輩方、色々個性的な人達が多かったんだけど
その中でも強烈な個性だったのがハチヤさん。
俺と10歳くらい年齢が離れていた彼はちょっとぽっちゃり型で
冬でも湯気を出すくらい暑がり。
ラーメンとか焼肉が大好きで、しょっちゅう連れてってくれたし
毎回おごってくれた。
後輩の面倒見が良いんだけど、挨拶や返事の仕方にも厳しく
よく注意されては怒られた。
独身で彼女がいなかったハチヤさんは、給料の全てを食事に
つぎ込んで「お金が無い」って言っていたが、それでも俺たち
後輩には飯をおごり続けてくれた。
それなのに、ある日いきなり中古のポルシェを購入した。
故障ばかりで全然走らないそのポルシェは、修理代ばかり
掛かったうえに、毎朝5時に起きてはエンジンの調子をチェック
しないといけない面倒な車。
そのせいで、ハチヤさんは更に精神的にも金銭的にも
追い込まれていたみたいだけど、それでも
「ゴメン高西君、今回は食べた分の500円しかおごってあげられない」
と言いながら、変わらず後輩たちを外食に連れてってくれた。
正直、「それならもうイイです」と言いたくなってしまう先輩だった。
 
そんなハチヤさんだったけど、練習は熱心だった。
熱心だったけど、彼の練習方法は打ちまくるだけだった。
2時間の練習なら、2時間ずっとストロークラリーをし続ける。
そしてそれを全て全力で打ちまくるのだ。
そのストロークの威力は凄まじかった。
フォアもバックも何のためらいも無く、しっかりボールを引っぱたく。
こっちはそれを返球するだけで精一杯だった。
 
暑がりだった彼は、朝練習しかしなかった。
朝涼しいうちに打ちまくる練習しかしなかった。
でも真冬も朝しかしなかった。
まだコートに霜が白く残っている状態でいきなり打ちまくる。
ストロークだけじゃなくサーブもボレーも、体からもうもうと湯気を
立てながら半袖になり、更にピチピチ気味の短パンでハチヤさんは
湯気を立てて打ち続けた。
そして、かすれた独特な掛け声でいちいち打つ時に叫ぶのだ。
よく近隣の住民から「朝からうるさい!」とクレームを受けた。
 
そんなやり方の練習しかしないから、後輩の俺たちしか彼の
練習には付き合えなかった。
朝練習しかしなかったのはそういうのもあったかもしれない。
ベテランコーチも混ざる午後の練習は、皆で一緒に
テーマ練習したりパターン練習したりするのだが、そういうことを
ハチヤさんはやりたがらなかった。
彼はただ目の前のボールを空いているコースに叩き込むこと
だけを考えてテニスしていたのだ。
相手との駆け引きややり取りなんかどうでもいい。
だから、会社でもちょっと浮いた存在になっていた。
でもハチヤさんは強かった。
社内のコーチの中でも戦績は上の方だった。
たまにサーブからのゲームをやったけど、全然ポイントが
取れなくて、圧倒的な実力差をいつも感じたもんだ。
 
上京当時、俺は一人前のテニスコーチになることを頑張ろうと
思っていた。
だけど、彼と一緒に練習しているうちに段々ハチヤさんが
カッコよく見えてきて、いつの間にか結局ラケットも同じラケットを
購入したし、テニスも完全に影響されて同じように打ちまくっていた。
そしていつの間にか俺は、テニス選手として頑張るようになっていた。
 
結局ハチヤさんは俺が20歳の時に退社した。
テニスも練習の仕方も仕事の仕方もお金の使い方も、
全て型破りだった彼は、その後どうなったのか知らない。
でもまだ上京したてで真っ白だった俺は完全に影響された。
あの頃「すごいショット!」って思った彼のパワーは実際
今見たらどんなショットだったのか大いに気になるところだが、
今思うと、あんなにひたすらずっとボールを全力で打ち続ける
人間をハチヤさん以来見たことが無い。
練習の仕方とかテニスの打ち方は参考にならなかったけど、
上京して最初に彼とずっと練習できたことは俺にとって
とても幸運だった気がする。
「何も考えず、打ちまくれば良いんだよ」
今でもハチヤさんにそう言われたことを思い出す。

隣のコートで大発見!

[過去の思い出] 投稿日時:2013/02/08(金) 11:09

現役時代、在籍していたテニスユニバースを退職した時、
まず困ったことは練習場所と練習相手の確保だった。
それまで練習していた職場のテニスコートが使えなくなった
から、近くの市営コートなどを借りるなどしたんだけど、
選手仲間がホームコートとか大学の部活に混ぜてもくれて
なんとか練習環境を作ることが出来た。
その中で一番お世話になったのは、立川ルーデンス。
そこに在籍していた土屋選手にいつも練習を誘ってもらった。
 
俺よりもランキングはずっと上にいた土屋選手との練習は
とても勉強になったんだけど、もう一つ大きな収穫があった。
それはよく隣のコートで打っていた安藤将之選手のプレーを
見られたこと。
日本でもトップクラスでプレーしていた安藤選手だけど、その当時は
もう試合出場数も減らして主に選手のコーチをしていたから、
隣で打っていた安藤さんは、だいたい選手のヒッティングとして
コートに立っていた。
その練習は黙々と相手選手と打ち合っていることが多かったんだけど
ショットの質の高さと、その質を維持させる安定感がとても素晴らしく
思わず何度も見とれてしまったもんだ。
 
土屋選手のプレースタイルは主にネットプレー。
じっくりストロークで打ち合うというより、隙あらばササッと
前に出てくるタイプだったので、淡々とストロークで打ち合う安藤選手と
違って、ラリーのペースは速いしショットもその都度変わってくる。
そういったテニスも重要なんだけど、当時俺が課題にしていたのは
安藤選手的な淡々と相手と打ち合えるストロークラリー。
その上手さの秘訣はどこにあるのか、土屋選手と練習しながらも
ずっと隣のコートを観察していた。
 
そこで感じたことはフットワーク。
相手が打ってくる色んなボールに対して、同じポジションの
入り方をしている。
細かく早いステップで的確にボールへ近づくから安定感が
損なわれないんだけど、早い段階で準備に取り掛かることも
その安定感の大きな要因となっている。
となると、その準備の早さが全てにおいての重要なヒントに
なっているように思えたんだよね。
で、その早い準備を作り出しているのが・・・声だと思った。
 
黙々とラリーしている安藤選手、打ちながら声を出すんだけど
よくよく聞くと自分が打つ瞬間だけじゃなく、相手が打つ瞬間にも
小さくだけど相槌を入れているような声が聞こえる。
ということは、声って自分が打つだけじゃなく相手が打つ瞬間にも
出した方が良いのか??
そう思って、隣で安藤選手のラリーを見ながらこっちもまずは声から
真似してみた。
その結果、相手が打つ瞬間もこちらが声を出すようにすると、
相手とのラリーのリズムと呼吸のリズムが合うようになるので、
プレーに対してとても集中出来ることが判明。
特に相手が打つ瞬間、ギュッと自分の意識が相手に集まり、驚く程
スムーズにボールへ対応できるようになったのを感じたのだ。
 
それ以来、自分のテニスにその声の出し方を取り入れた。
その結果、試合結果も良くなったし、ランキングを更に上げることが
出来たのだ。
もちろん結果が良くなったのは安藤選手の声の出し方だけじゃない
だろうけど、それくらい自分のプレーにすんなりマッチしたんだよ。
大きな発見だったね。
皆も、自分が打つ瞬間だけじゃなく、相手が打つ瞬間も声を
出して呼吸をしてみよう。
それから、「上手いな」って思う選手を見付けたら、その選手の
上手さや強さのコツを見抜けるようにしてもらいたいね。

佐藤充選手

[過去の思い出] 投稿日時:2013/02/01(金) 03:32

高校の部活を支援していて思うのは、それぞれ部活を頑張っている
皆に結果を出してもらいたいということ。
じゃあ、その結果は何かと言うと、もちろん戦績なんだけど
それだけじゃなくて、過去の自分を追い越して自分自身が成長する
こともそうだし、部活動を通して仲間を作ったり信頼関係を築くこともそう。
それから、精神的に成長することも「結果」を出したと言える。
とにかく、部活動で全力を尽くすということは、試合の結果を追い求め
続けることなのだが、戦績以上に多くの価値ある結果を得ることが出来る。
 
そしてその結果が卒業したあと、色んなことに生かされるのだ。
だから部活動を頑張った選手は、素晴らしいテニスの技術を得られる
ことで、その後のテニスでの活躍が期待されるだけでなく、その選手の
人生も大いに期待されるのだ。
そんな高校の部活動3年間を頑張り続けた姿を見せてくれた
選手が、先日一人亡くなった。
明治大学4年生の佐藤充選手。
充のテニスは、彼が高校の時、3年間ずっと見てきた。
だから彼の今後に大きな期待をしていたし、つい最近まで充から
「大学を卒業するまでにもう一度勝負しましょう!」って連絡を
もらっていたのだ。
そんな彼に対して「まだ負けないよ!」と言いながら結局実現
出来なかったことが悔しいというか、腹立たしくてならない。
 
充と最初に出会ったのは彼が東京の大成高校で1年生の時。
その大成高校のコーチとして就任した日に、いきなり質問攻めを
してきたのが充だった。
テニスの技術のことだけじゃなく、ラケットやシューズやウェア、
海外のこと等も、とにかくなんでも質問しまくる充はすぐにこちらの
懐にどんどん飛び込んできた。
遠征に行く車の中でもずっと喋っているのは一年生の充で、コーチの
俺とか監督や先輩達から「少しは落ち着けよ!」「うるさい!」
と怒られてばかりだった。
 
そんな充を連れて、JOPの試合やフューチャーズの予選を回った。
それまで同世代のテニス選手とばかり戦ってきた彼には、一般の
プレーヤーやフューチャーズで見る国内トップクラスの選手達は
衝撃だった。
「俺、もっと強くなります!」
フューチャーズの予選会場でボロ負けをした後
そう宣言していた充は更にイキイキとしていた。
一緒に同じ大会を回っていたので、充と対戦したこともあった。
荒削りなプレーで危なげなくこちらが勝利を挙げたが、しっかりと
打ち込む充のショットストロークだけではなく、サーブもボレーも
魅力的だった。
一緒に出場したダブルスでは充ばかりが相手ペアに狙われて
何も出来なくなり、泣きそうな表情を浮かべながらもがいていたのを
今でも覚えている。
とにかく喜びも悔しさも目一杯感じながら充は頑張っていた。
 
2年、3年と大きく彼は成長し、舞台も全国となる。
それでも相変わらず充は人懐っこい表情を見せながらコートに
立って練習をしていた。
大成高校ナンバー1としてプレーしていた彼に、もっと
ナンバー1としての自覚と威厳を持つように話をしたことがあるが
それでも充は充のままだった。
彼はあれで実は厳しさを持ち合わせていたし、もがきながら
苦しんでいたのだった。
 
大学に行った充とは殆ど会う機会も無く、たまにメールでやり取りを
するだけだったのだが、昨年の夏に明大明治高校でイベントを
行なった時に、隣の明治大学のテニスコートで練習をしていた充と
バッタリ再会を果たすことが出来た。
随分と体も鍛え上げられ、顔つきも変わって成長したと感じたが
やっぱり喋ると昔のままの充だった。
大学に入って色んな厳しさを経験したはずなのに、そういった苦労を
表に出すこともなく、楽しそうに彼は頑張っていた。
それが俺にはたまらなく嬉しかった。
 
そんな充を見てきたのに、これから彼の将来を期待できないのだ。
充はその屈託のない笑顔の中に強い気持ちを持っていたのに。
今までの頑張りがバネとなって大きく高く跳躍しようとしていたのに。
どうしても彼の存在を俺は忘れることはない。
彼の生きようとした分だけ、俺や彼の周りの仲間が頑張って
生きようって、そう思っても、なんかやっぱり違う気がする。
充よ、やっぱり充がいないとダメなんだよ。
高校の3年間、大学の4年間の頑張りを充はどうこれから
使いたかったんだろうか。
あまりにも悔しすぎる。

スペインでコーチに怒られたこと

[過去の思い出] 投稿日時:2013/01/14(月) 09:07

海外に行くと、上下関係なんてものは無くなる。
選手とコーチは友人として付き合うし、お互い冗談言ったり
からかったりするのが、最初はどうも気になって馴染めなかった。
だってアメリカでレッスン受けているジュニアを見たときなんか、
子供は一切ボールを拾わない。
コーチがせっせとボールを拾うんだけど、その間子供達は
ドリンクしながら休憩をする。
「だって、ボール拾うためにレッスン受けているのでは無いから」
というのが彼らの言い分だが、それはコーチもそう思っているから
問題なく成り立ってしまうのだ。
 
スペインのアカデミーにいた頃も、ついついコーチに対して
目上の存在として接してしまっていた。
他の選手なんか、平気でコーチに楯突いたりしていたが
俺なんてそんな事しようなんて微塵にも思わなかった。
もちろんコーチの言っていることに疑問を持ったり不満を感じる
ことはあったけど、出来るだけコーチ達の言うことを実践するように
意識していたもんだ。
その関係は「コーチと選手」という関係よりも「師匠と弟子」という
関係を意識していたんだよ。
コーチ達を信頼仕切っていたからね。
 
そんなスペイン時代のアカデミーのコーチの中に、当時
ステファンというコーチがいた。
スペイン人とスイス人のハーフで、スペイン語はもちろんの事
英語、ドイツ語、フランス語が堪能で、レッスンも大雑把な教え方の
コーチが多い中、きっちりと細かく説明してくれるし、理解してないと
分かるまで解説してくれる熱血コーチだった。
しかし・・・彼の雰囲気が怖かった。
目がギョロッとしていて背が高い。
あまりにこやかとは言えない上に、練習内容や注意点などの
課題が分かってないと、必ず止めて説明をし直すんだけど、
どうしてもその時の顔も喋り方も怖いから、なんとなく説教を
されている気分になってしまう。
彼の練習自体も他のコーチ以上にきつかったから、何となく
段々と鬼コーチっぽく見えてきた。
当時、同じアカデミーで一緒に練習していた日本人の選手達は
ステファンがその日の担当になると「うわ~」って嫌がっていたが
俺自身もちょっとビクビクしてしまうから、アカデミーに行って
ステファンの姿を見掛けると「どうか当たりませんように」って
思ったこともあった。
 
しかし彼が担当となると、「うわっ!」って思う気持ちと裏腹に
練習の集中力はとてつもなく高まった。
練習内容や注意点を聞き漏らすと、練習を止められるから
話もしっかり聞いていたし、他のコーチ達より練習内容がハードだから
集中し続けないと一気に崩れてしまう。
だから彼を避けようとする気持ちがある反面、彼が担当になって
欲しいという気持ちもあったんだよ。
矛盾しているけど、やっぱり選手として強くなりたいという思いが
当然あるからね。
だから彼はトップ選手たちからの人望も厚く、選手のツアーコーチ
としてもよく世界を駆け回っていた。
 
そんな厳しくて怖い感じだけど、頼り甲斐のあるステファンのレッスンを
受けていると、ついついスペインにいながらも彼に上下関係を意識して
しまうんだよね。
悪い意味ではなく、「テニスを教えてくれる俺の師匠」という
尊敬と感謝の気持ちを込めて、挨拶もきっちり行い、スペイン語や
英語の敬語はイマイチ分からなかったけど、出来るだけ丁寧な
言葉遣いを心掛けて接していた。
ところが、ある日レッスン終わった後に「Thank you」と彼に言うと
「なんでThank youなんだ?」と眉間にシワを寄せて詰め寄ってきた。
「いや、あの・・・レッスンをしてくれたので」と言うと
「テニスを教えるのが俺の仕事。トモはレッスンを受ける権利がある。
Thank youと言うな」と怒られた。
あんなデカイ人にあんな怖い顔でそんなこと言われると
「御免なさい」って思わず言いそうになったけど、何とか
それは飲み込んだ。
「御免なさい」もなんだか怒られそうだったからね。
 
でもその日を境に、ステファンの見方がちょっと変わった。
結局、「師匠と弟子」という関係は、双方にその気がないと
成り立たず、あくまでもここスペインでは「コーチと選手」の関係
であり、コーチ自体そういう関係を選手に求めているのだ。
だから俺たち選手はもっとコーチを振り回すくらいの存在に
ならないといけない。
一見怖そうなステファンを怖がるフリして、実は俺自身の
自立心を甘やかしていたのかもね。
だから、ステファン相手でも、レッスン中はもっと意見や時には
不満を言わないといけないし、彼らはそれをサポートしてくれる
用意があるんだよ。
 
そう言われた後、そういう気持ちで付き合うようになると、
ステファンって実にナイスガイであった。
でも結局最後まであの顔で迫られるとドキドキする気持ちも
消えなかったけどね。
怖かったけど優しくて、一生忘れられないくらい
素晴らしいコーチであった。
因みに・・・ステファンは俺より年下。
その事は今でも信じられない。
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