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てにすまん 高西ともブログ ブログテーマ:過去の思い出

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小さな勝利

[過去の思い出] 投稿日時:2011/10/24(月) 09:19

テニスを始めたのが高校生の時だから
高校時代はそんな大した戦績は残していない。
でもキラリと光るテニスの才能の片鱗があったか・・・と言われると
それも無かった気がする。
たまに教わっていたコーチからも
「お前はサッカーの方が向いていたんじゃない?」って言われるほど。
だから、さほどテニスにのめり込んではいなかったし、高校卒業後に
続ける気なんて全然無かった。
 
でも結果が出ると、それが励みになって「よし次も頑張ろう!!」って
少しずつ自分を成長させる努力をしようとし始める。
そのキッカケとなる大会を今でも覚えている。
それは、大阪府の第4学区団体戦であった。
どういう大会かと言うと、大阪が地域によって幾つかの学区に
分けられているんだけど、そのうち俺が行っていた第4学区という
小さな地区の団体戦なのだ。
そう、とても小さな大会。
 
でもその大会で、我々は皆で頑張って予選を突破して本戦に
進むことが出来た。
たった2回勝ち上がっただけなんだけど・・・・。
でも我々弱小テニス部にとっては、皆初めての予選突破で
大喜びだったのを鮮明に覚えている。
あまりに嬉しかったから、学校にお願いして学校全体の集会の時
全校生徒の前で表彰してもらい、それがまた感動だった。
 
今考えると、そんな大した規模の大会では無いし、相手もそんな
凄いレベルじゃない。
でも当時の俺達にとっては本当に嬉しくて、誇りに思えた。
結局そういうのがあったから次に繋がり、また次もう少し大きな規模で
結果を出して更にステップアップし、そうやってプロテニスプレーヤーという
領域まで来れたんだよ。
 
そう考えると、どんな小さな大会のちょっとした一勝も、その人の
その後のテニス人生の突破口になる可能性ってあるわけだ。
一つ一つの喜びや感動を積み重ねて、初めて高い目標を目指すことが
出来る・・・ということだね。
才能なんて関係ない。

俺がスペインに残した爪痕

[過去の思い出] 投稿日時:2011/10/19(水) 06:08

アメリカに行った時もスペインに行った時も当然
現地の言葉で会話をした。
アメリカにいる時はもちろん英語だし、スペインにいる時は
スペイン語。
でもアメリカではスウェーデン人とも一緒に暮らしていた時が
あるので、スウェーデン語も少し教えてもらったし、日本語も
その代わりに教えてあげたりした。
 
スペインにいる時も、練習していたアカデミーには
世界各国から選手が集まっていたから、ロシア語、ドイツ語、ポルトガル語
イタリア語・・・と色んな言葉が飛び交っているので、共通言語は
英語とかスペイン語なんだけど、それぞれの国の言葉も教えてもらい、
ドイツ人と朝に会った時はドイツ語で「おはよう!」って声を掛けたり
逆に日本語で言われたり・・・となかなかの国際的な環境にいたわけだ。
 
ただ・・・挨拶の次に覚えようとする言葉は何かと言うと、汚い言葉。
悪口だったり卑猥な言葉を覚えようとする。
これはどの国の選手も共通して
「日本語で、○○にあたる言葉は何て言うの?」ってすぐ言ってくる。
もちろんこの○○に当てはまる言葉はここでは詳しくは書けないけど
まぁ英語で言うとFから始まる4文字の単語みたいなもんだね。
まだ10代後半の選手が殆どだから、そんなことばっかり興味持って
るんだと思うんだけど、そういう事を聞かれるのは、凄い仲良くなった証拠でも
あるから、俺も一生懸命考えて「う~ん、××かな・・・」って汚い日本語を
教えてあげる。
 
でも意外と日本語って汚い言葉が無いんだよね。
そもそも選手達も、覚えた汚い言葉をどう使うかって言うと
プレー中に上手くいかなくなると「チクショー!!」っていう意味で
使うんであって、必ずしも悪口に使う訳ではないのだ。
でもそうなると「チクショー」ではちょっと軽いし、そんなに下品とは言えない。
だからと言って他にそういう場面で使える汚いワードが思い付かない・・・・。
 
そこで、そういう場面では使えないけど、とにかく日本語の
汚いワードを3つ、語呂を揃えて教えてあげた。
ま、何を教えたかは到底ここでは書けないんだけど、
語呂も良いし、意味も超下品極まりないから、各国の選手達が嬉しそうに
大声で叫んで使ってくれていたんだけど、教えた俺としては日本人が
聞いたら引くようなワードだから、複雑・・・。
 
しかしそれから2年後、また同じスペインのアカデミーで練習することに
なった俺は、久し振りにそのコートに戻った。
すると「○○!!××!!□□!!」と知らない外人選手が
その汚い日本語ワードを使っているではないか!!!
しかもその選手に聞くと代々伝わっている日本語らしい・・・・。
さすが、国際的なテニスアカデミー。
テニスの技術だけじゃなくそういうことまで伝承されるんだね。
俺がそのアカデミーに残した爪痕がちゃんとあって、ちょっと感動。

飛び込む勇気と、空しさに耐える努力

[過去の思い出] 投稿日時:2011/10/14(金) 10:24

テニスを上達させる一番の方法を教えてあげよう。
それは・・・・強い人達に混じってテニスをすること。
これに尽きる。
逆に言うと、自分よりレベルが低い人達や同じレベルの
人達を一緒にしていても上達の効率は良くない。
例え、良い練習メニューをやっていたとしてもね。
 
当然俺が現役の頃もそういう考えを持っていたから、常に
強い選手のいる所へ顔を出して、一緒に練習をしてもらったよ。
試合の時もそうだ。
試合の前や後の練習では強い人達に「練習して下さい!」って
お願いしに行って、練習をやってもらえると、それだけ自分のテニスが上達する。
でも試合の時は練習だけじゃない、ダブルスも一緒に組んで出場するチャンス!
ダブルスの場合は、上手い人と対戦する以上に、上手い人と一緒に
組めるので、なんだか自分もそのペアのレベルになった気分に
なれる。
 
だけど、その上手いペアを組むと当然強くなるから、いつもより勝ち上がれる。
そうすると、相手も両方上手いペアと対戦する所まで行くんだよ。
するとどうなるか・・・。
コートにいる4名のうち、レベルの高い選手が3名、明らかにレベルの
低いのが・・・俺1名。
いくら俺がポジティブで前向きにプレーし続けても、もう付いていけなくなる。
 
まだ会社に所属して選手をやっていた20代後半、ある時その会社に
実業団から一人強い選手がやってきた。
ま、会社としては俺の後輩になるわけだから、それを利用して
「一緒にダブルス出ようぜ!!」と
とにかく一緒に出る大会ではダブルスを組んでもらい、その結果、
勝ち上がることが出来たんだけど、3人ハイレベルの中で
空しく一人ドタドタテニス・・・を沢山経験した。
 
空しかった・・・・。
惨めだった・・・・。
そう感じると余計に力が入ってプレーがダメになり、もっと
レベルが低いテニスになった。
 
でもそういうのを辞めようとは思わなかった。
その結果、徐々に上のレベルの人達のプレーに順応できるようになり
そして自分のテニスを大きく成長させることが出来たのだ。
空しくても、惨めでも、強い人達の中に飛び込むことは必要だね。
ただ、ちょっと後輩選手には迷惑だったかもしれないが・・・。

小学生選手達と共に成長。

[過去の思い出] 投稿日時:2011/10/11(火) 13:32

18歳で上京してテニスコーチの仕事を始めた時
最初はモチロンアシスタントコーチとして、先輩コーチの
補助をしながら研修をさせてもらった。
ボール出しの仕方や説明の仕方、レッスンの進め方なんかを
メインコーチの下で学んでいたんだけど、それと同時にジュニア選手の
育成プログラムのコーチにもなった。
ま、コーチというよりヒッティングの選手だったんだけどね。
 
ヒッティングだから、俺の役割はジュニア選手の相手をとことん
し続けること。
スタートしたばかりだから、ジュニア選手はだいたい5,6人くらい。
小学生が中心だったんだけど、そんな彼らの相手をずっとしていたよ。
皆負けず嫌いだから、ポイント練習やって俺が勝ったら
「もっとやる!!!」と悔しがって、レッスン終わった後もずっと
俺と試合をしたがるんだけど、メインコーチも
「じゃあ高西、レッスンの後も相手してあげてよ!」ってあっさり
言うもんだから、毎回レッスンの後は残業ヒッティングが続いた。
 
そんな彼らの面倒をずっと見ていたから、彼らの成長とともに
俺のテニスも成長させることが出来たし、何よりコーチングとは
どういうことか・・・を学ぶことが出来た。
 
彼らに選手として勝たせるにはどうすればいいのか、
何を練習させて、どういうアドバイスをするべきなのか、
そしてどういう意識を持たせれば良いのか・・・・。
普通のレッスン生の方々ももちろんテニスを上手くさせたくて
スクールへ来ているだろうが、ジュニアの選手達はより
将来のことを考えてコートに立っていると感じて、
こっちも毎日必死だったよ。
たくさん残業ヒッティングも行ったしね。
 
そこで学んだ考え方が、今の俺のコーチングの基礎に
なっているのは確かである。
そんな当時の子供達も、最近「結婚しました!!」とかいう
連絡が来るようになった。
ちょうど先週も結婚式の招待状が届いた。
年月が流れるのは早いもんだ。

背中をトンって押されたんだよ。

[過去の思い出] 投稿日時:2011/10/06(木) 11:39

高校生の頃の俺のテニスは大したことなかった。
ま、一応学校ではナンバー1だったけど、その地位を
必死になって築いたかというと、そうではなく、初心者だらけの
部員の中で、ちょっと両親がテニスやっているというプラス要素が
あったから、皆より少し上だっただけ。
自信も無かったしプライドも無かった。
 
でも高校卒業してから、上京してコーチしながら選手を
し始めて大きく変わった。
テニスの本当の楽しさを知ることが出来たし、
テニスが好きになったからね。
でもまだまだ「テニス選手」としての意識は、競技者というより
愛好家的な感覚だった。
 
でも22歳の頃、アメリカへ行く機会があり、そこで本物のテニス選手と
接する事が出来たことで、「もし自分が選手を目指したら・・・」と
本気で考えるようになり、そして選手として生きていく道を選んだ。
 
しかしなかなか結果は簡単に出るモノでは無い。
頑張りながら、もがき苦しんでちょっとずつ道を切り開いている時に
スペインに行くことになり、そこで選手としてどういう心構え、生活の仕方が
必要なのかを学ぶことが出来た。
俺が25歳の時だ。
 
こういった経験を経てテニス選手となった俺。
でも、実は自分で前へ突き進んでいるように書いたけど、
本当は違うんだよ。
正確に言うと、どこで何をするのかを決めたのはモチロン
自分の判断なんだけど、全て周りにいる人達が
「上京してテニスコーチやってみるか?」
「アメリカで一度テニスしてみろよ。」
「くすぶってないで、海外で思いっきりプレーしなきゃ!!」
ってキッカケをくれていたんだよ。
 
活動的だってよく言われるけど、全て実はキッカケがあった。
と言うことは俺の周りには、こうやって俺を見てくれてトンって
背中を押してくれる人がいるんだよ。
これは凄い幸せなことなんだけど、でも皆の周りにも必ずそういう
人達がいるような気はする。
そういうキッカケを与えてくれる人達の言葉を拾っているかいないか、
だと思うんだよ。
 
「いや、そう言ってくれる人がいない」って言い切れる人は
たぶん、その人自身のアピールが足りないのかな?
周りにアピールするのも忘れずに・・・。
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