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てにすまん 高西ともブログ ブログテーマ:過去の思い出
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優勝候補失格
[過去の思い出] 投稿日時:2011/09/12(月) 15:52
大会に臨む時は色んな事を考える。
不安や心配もあるけど、やっぱり勝つことを考える。
特に自分にシード選手が付いていて、しかも上のシード選手が
過去に勝ったことある選手だったりすると「優勝出来るかも・・・」と
期待しながら大会をスタートさせる。
そんな感じで自分が自分を優勝候補にしてしまうと
会場で堂々といられる。
「俺は優勝候補だよ!なめんなよ!!」
みたいな感じで周りの選手に威圧感を与えて、周りからも
「強そうだ・・・」と思わせる。(思ったかは疑問だが)
とにかく自分自身も周りも「高西が優勝しそうだ」という空気を
感じていないとやってられないからね。
決勝までは何度かいったけど、まだ優勝経験の無かった頃
どうしても俺は優勝したい気持ち満々でとある群馬の大会に出場した。
第3シードだったんだけど、第1シード、第2シードを見ると
一人は過去に勝ったことある選手で、もう一人は何とか頑張れば
勝てなくもない選手。
これはチャンスあり!!!
気合入れて大会に臨んで初戦突破。
そして2回戦目、ランキングが俺より下の選手で地味に
繋ぐ相手と対戦して、これも難無く倒して・・・・といく予定だったんだけど
予想以上に粘る相手にちょっと苦戦してしまった。
1セット目は6-1で難無く取ったのに、2セット目のスコアは競り合い。
しかも試合が進むにつれて、相手はどんどん粘りに磨きが掛かる。
当然俺はストレスが溜まって行く。
そしてタイブレークまでもつれた結果、俺のがミスを連発し
2セット目を落とした!!!
「こんなところでつまずいている場合じゃないんだよ!!」
そう思いながら、3セット目をスタートさせるが、完全に相手に
対して感情的になり、冷静な判断も出来ないし勝つ為のアイデアも
浮かばない。
その結果リードされてしまい、そのまま負けてしまった。
優勝目指して参戦したのに、結果は2回戦敗退・・・・。
しかも相手はランキング下の地味な繋ぐ選手・・・・。
負けた原因は、上(優勝)を見過ぎていたから?
いやいや、優勝は目指して当然だ。
問題は結局優勝するにしても、一つ一つの勝ち星を
上げ続けることを念頭に置いておかないといけないということ。
「優勝するんだから、こんなところで苦戦したくない」ではなく
苦戦を積み重ねて乗り越えるから、優勝が待っている。
俺の中ではシード選手と以外は苦戦しないつもりだったんだろうね。
そんな甘い世界ではないって当たり前なのに・・・。
甘ったれた考えのヤツはこうやって途中で足元をすくわれるのである。
不安や心配もあるけど、やっぱり勝つことを考える。
特に自分にシード選手が付いていて、しかも上のシード選手が
過去に勝ったことある選手だったりすると「優勝出来るかも・・・」と
期待しながら大会をスタートさせる。
そんな感じで自分が自分を優勝候補にしてしまうと
会場で堂々といられる。
「俺は優勝候補だよ!なめんなよ!!」
みたいな感じで周りの選手に威圧感を与えて、周りからも
「強そうだ・・・」と思わせる。(思ったかは疑問だが)
とにかく自分自身も周りも「高西が優勝しそうだ」という空気を
感じていないとやってられないからね。
決勝までは何度かいったけど、まだ優勝経験の無かった頃
どうしても俺は優勝したい気持ち満々でとある群馬の大会に出場した。
第3シードだったんだけど、第1シード、第2シードを見ると
一人は過去に勝ったことある選手で、もう一人は何とか頑張れば
勝てなくもない選手。
これはチャンスあり!!!
気合入れて大会に臨んで初戦突破。
そして2回戦目、ランキングが俺より下の選手で地味に
繋ぐ相手と対戦して、これも難無く倒して・・・・といく予定だったんだけど
予想以上に粘る相手にちょっと苦戦してしまった。
1セット目は6-1で難無く取ったのに、2セット目のスコアは競り合い。
しかも試合が進むにつれて、相手はどんどん粘りに磨きが掛かる。
当然俺はストレスが溜まって行く。
そしてタイブレークまでもつれた結果、俺のがミスを連発し
2セット目を落とした!!!
「こんなところでつまずいている場合じゃないんだよ!!」
そう思いながら、3セット目をスタートさせるが、完全に相手に
対して感情的になり、冷静な判断も出来ないし勝つ為のアイデアも
浮かばない。
その結果リードされてしまい、そのまま負けてしまった。
優勝目指して参戦したのに、結果は2回戦敗退・・・・。
しかも相手はランキング下の地味な繋ぐ選手・・・・。
負けた原因は、上(優勝)を見過ぎていたから?
いやいや、優勝は目指して当然だ。
問題は結局優勝するにしても、一つ一つの勝ち星を
上げ続けることを念頭に置いておかないといけないということ。
「優勝するんだから、こんなところで苦戦したくない」ではなく
苦戦を積み重ねて乗り越えるから、優勝が待っている。
俺の中ではシード選手と以外は苦戦しないつもりだったんだろうね。
そんな甘い世界ではないって当たり前なのに・・・。
甘ったれた考えのヤツはこうやって途中で足元をすくわれるのである。
冷たい視線が俺の心を切り裂いた
[過去の思い出] 投稿日時:2011/09/07(水) 13:48
俺のプレースタイルは何かというとオールラウンドである。
粘るテニスを中心にストロークラリーを行い、チャンスがあれば
そこから踏み込んでのストロークを打ち、ネットプレーで
プレッシャーをかける。
でもかつて、俺は粘るストロークばかりのベースラインプレーヤー
だったし、その前はガンガン打ちこみ系のストローカーだった。
ネットプレーなんか視野に入れてなかったね。
たまに前に出された時、仕方なくボレーしていたけど、基本的には
ネットプレーのノウハウには乏しい選手だったよ。
それから基本的にシングルスのことしか考えていなかったから
ダブルスなんて苦手だった。
レシーブの時は、レシーブで一気に勝負を決めようとしていたし
サーブの時は最初のボレーに頼らず、サーブとストロークで
一気に優位に立とうとしていた。
そんなテニスだったけど、シングルスは何とか勝って100位以内に
入ることが出来たんだけど、段々ランキングが上がって来ると
テニスイベントでデモンストレーションやったり、参加者の人達に
「プロに挑戦!」みたいなことを行う仕事がチラホラ入ってきた。
でもそういうイベントって、基本的にダブルスなんだよねぇ・・・・。
「では、ここで選手4名によるダブルスのエキシビジョンマッチをどうぞ!」
みたいな感じで、司会の方が紹介してくれて大勢の人達が見守っている中で
ダブルスをやったりするんだけど、まだそういうのに慣れていない頃は
もう緊張のあまりボロボロとミスを連発したのを覚えている。
「え~」ってちょっと参加者に言われるんじゃないかっていうような凡ミスが続き
空気も悪くなり余計ガチガチになっていく。
その頃、ダブルスというとストロークで粘るか打ちこむか・・・だったから
そんな模範的なダブルスプレーが出来なかった。
でもやっぱりここは選手としてサーブ&ボレーで華麗なプレーを見せたい・・・なんて
見栄もあってやってみたんだけど、結果は散々だったのを今でも覚えている。
それからシングルスのプレースタイルはオールラウンドに変わり
ダブルスのこともネットプレーのノウハウを覚えてからは真剣に
取り組むようになった。
おかげでイベントでのダブルスデモンストレーション、今じゃ楽しみながら
色んな選手達と行えるようになったよ。
でも今でもあの頃の悲惨なエキシビジョンマッチ思い出すとゾッとする。
皆の冷ややかな視線が痛かったなぁ。
粘るテニスを中心にストロークラリーを行い、チャンスがあれば
そこから踏み込んでのストロークを打ち、ネットプレーで
プレッシャーをかける。
でもかつて、俺は粘るストロークばかりのベースラインプレーヤー
だったし、その前はガンガン打ちこみ系のストローカーだった。
ネットプレーなんか視野に入れてなかったね。
たまに前に出された時、仕方なくボレーしていたけど、基本的には
ネットプレーのノウハウには乏しい選手だったよ。
それから基本的にシングルスのことしか考えていなかったから
ダブルスなんて苦手だった。
レシーブの時は、レシーブで一気に勝負を決めようとしていたし
サーブの時は最初のボレーに頼らず、サーブとストロークで
一気に優位に立とうとしていた。
そんなテニスだったけど、シングルスは何とか勝って100位以内に
入ることが出来たんだけど、段々ランキングが上がって来ると
テニスイベントでデモンストレーションやったり、参加者の人達に
「プロに挑戦!」みたいなことを行う仕事がチラホラ入ってきた。
でもそういうイベントって、基本的にダブルスなんだよねぇ・・・・。
「では、ここで選手4名によるダブルスのエキシビジョンマッチをどうぞ!」
みたいな感じで、司会の方が紹介してくれて大勢の人達が見守っている中で
ダブルスをやったりするんだけど、まだそういうのに慣れていない頃は
もう緊張のあまりボロボロとミスを連発したのを覚えている。
「え~」ってちょっと参加者に言われるんじゃないかっていうような凡ミスが続き
空気も悪くなり余計ガチガチになっていく。
その頃、ダブルスというとストロークで粘るか打ちこむか・・・だったから
そんな模範的なダブルスプレーが出来なかった。
でもやっぱりここは選手としてサーブ&ボレーで華麗なプレーを見せたい・・・なんて
見栄もあってやってみたんだけど、結果は散々だったのを今でも覚えている。
それからシングルスのプレースタイルはオールラウンドに変わり
ダブルスのこともネットプレーのノウハウを覚えてからは真剣に
取り組むようになった。
おかげでイベントでのダブルスデモンストレーション、今じゃ楽しみながら
色んな選手達と行えるようになったよ。
でも今でもあの頃の悲惨なエキシビジョンマッチ思い出すとゾッとする。
皆の冷ややかな視線が痛かったなぁ。
ラケットを折る
[過去の思い出] 投稿日時:2011/09/02(金) 14:25
ラケットって高いよね。
でも一本じゃ足りないから、選手として3本以上は
持っておきたい。
2本で試合に出場するのはちょっと不安もある。
続けてすぐにガットが切れることは少ないけど、
あり得ないことではないからね。
そんな高いラケットを3本以上用意するのは大変なこと。
大事な大事なラケットである。
そんな大事なラケットを己の力で折ったことはあるだろうか。
俺は・・・・ある。
しかも何本も。
もちろん現役時代で若かりし頃だな。
最後に折ったのはいつだろう。
25歳頃だったかな。
どんな時に折ったかというと、当然イライラしていて
怒りが爆発した時。
試合中折ることも多かったけど、意外と練習中も折っていた。
自分の思うようにプレーが出来ず、ガマンのテニスを続けていた時
相手のラッキーショットなんかで大事なポイントを持って行かれると
もうプツンと何かが切れて、気が付くとラケットをコートに叩きつけていた。
でも毎回その瞬間「あっ!」って我に返る。
「投げちゃった・・・」
そして慌ててラケット拾ってフレームを確かめる。
すると・・・だいたいフレームのどこかにひびが入っていて
「投げなきゃ良かった・・・・」って猛烈に反省するのである。
そう、投げて折っても気持ちがすっきりしたことなんて一度もない。
それどころか、試合内容のイライラにラケット折れた猛省が
加わりホント最悪のテンションで泣きたくなる。
でも「よし、今から投げてやる!」ではなく、プツンと切れた瞬間
勝手にラケット持った腕がコートに叩きつけるもんだから
不可抗力だった。
それがなぜ20代後半頃から全く投げ無くなったのか・・・。
今考えると、どんな状況でも受け入れられるように
なったからだと感じる。
自分が超最低な調子でも相手にラッキーショット決められても
ダブルフォルトが3本続いても超下手な相手にリードされても、
「あり得ること」として感情的にならず、
「それならば次にすることは・・・」と、常に前を向いていれるように
なったからだと思う。
ラケット投げていた頃の俺は、その時の自分のミスや相手のプレーに
切れていたのもあるだろうが、現状を受け止めようとせず、これから
すべきことを考えられなかったために、絶望感しか感じられなかったのだろう。
どんな状況に置かれようと、常にそこから這い上がる為のアイデアを
模索し、希望を感じ続けることが出来れば、大事なラケットを投げて
折るなんてことは無いと思う。
大事に大事にラケットを扱ってあげよう。
でも一本じゃ足りないから、選手として3本以上は
持っておきたい。
2本で試合に出場するのはちょっと不安もある。
続けてすぐにガットが切れることは少ないけど、
あり得ないことではないからね。
そんな高いラケットを3本以上用意するのは大変なこと。
大事な大事なラケットである。
そんな大事なラケットを己の力で折ったことはあるだろうか。
俺は・・・・ある。
しかも何本も。
もちろん現役時代で若かりし頃だな。
最後に折ったのはいつだろう。
25歳頃だったかな。
どんな時に折ったかというと、当然イライラしていて
怒りが爆発した時。
試合中折ることも多かったけど、意外と練習中も折っていた。
自分の思うようにプレーが出来ず、ガマンのテニスを続けていた時
相手のラッキーショットなんかで大事なポイントを持って行かれると
もうプツンと何かが切れて、気が付くとラケットをコートに叩きつけていた。
でも毎回その瞬間「あっ!」って我に返る。
「投げちゃった・・・」
そして慌ててラケット拾ってフレームを確かめる。
すると・・・だいたいフレームのどこかにひびが入っていて
「投げなきゃ良かった・・・・」って猛烈に反省するのである。
そう、投げて折っても気持ちがすっきりしたことなんて一度もない。
それどころか、試合内容のイライラにラケット折れた猛省が
加わりホント最悪のテンションで泣きたくなる。
でも「よし、今から投げてやる!」ではなく、プツンと切れた瞬間
勝手にラケット持った腕がコートに叩きつけるもんだから
不可抗力だった。
それがなぜ20代後半頃から全く投げ無くなったのか・・・。
今考えると、どんな状況でも受け入れられるように
なったからだと感じる。
自分が超最低な調子でも相手にラッキーショット決められても
ダブルフォルトが3本続いても超下手な相手にリードされても、
「あり得ること」として感情的にならず、
「それならば次にすることは・・・」と、常に前を向いていれるように
なったからだと思う。
ラケット投げていた頃の俺は、その時の自分のミスや相手のプレーに
切れていたのもあるだろうが、現状を受け止めようとせず、これから
すべきことを考えられなかったために、絶望感しか感じられなかったのだろう。
どんな状況に置かれようと、常にそこから這い上がる為のアイデアを
模索し、希望を感じ続けることが出来れば、大事なラケットを投げて
折るなんてことは無いと思う。
大事に大事にラケットを扱ってあげよう。
テニス語、喋れますか?
[過去の思い出] 投稿日時:2011/08/31(水) 12:04
高2の夏休みはテニスコーチのバイトを頑張った。
副部長だったにも関わらず、部活を休んで長野県の
白馬で開催されていたテニスキャンプコーチとして参加したのだ。
そこには、大阪や東京、愛知と色んなところからお客さんが
集まり、大自然の中でテニスを楽しみながら過ごす。
そこで俺はテニスを通してコミュニケーションが生まれることを
初めて感じることが出来た。
それまではテニスと言っても部活内だけの世界だったんけど
そういうテニスキャンプには知らない人がどんどん集まり
一緒にレッスンしてテニスして・・・と一日過ごすと、もう晩ご飯を
食べる頃にはずっと知り合いだった気がするくらい仲間意識が
生まれるのだ。
しかも殆ど大人の人達。
高校生だった俺には、こうやって大人の人達ともテニスを
することで仲間になれることが衝撃だったし刺激的だった。
ある意味、テニスは自分にとって何か新しい言語みたいなもんで
その魔法の言語を使えると、未知の人達とも会話が出来ると
思ったよ。
結局その言語を携えることが出来たから、上京することも
平気だったし、英語やスペイン語が全く話せなくともアメリカや
スペインへ行くことが出来たからね。
俺の行動力はテニスという言語を手に入れたから身に付いたと
言っても良いくらいだね。
皆も是非、テニスを言語として大いに利用してもらいたい!
でも大事なことは、テニスが大好きな人、テニスを一生懸命
やっている人じゃないと言語としては使えないから要注意。
レベル?テニスのレベルは問題じゃない。
ご安心を。
副部長だったにも関わらず、部活を休んで長野県の
白馬で開催されていたテニスキャンプコーチとして参加したのだ。
そこには、大阪や東京、愛知と色んなところからお客さんが
集まり、大自然の中でテニスを楽しみながら過ごす。
そこで俺はテニスを通してコミュニケーションが生まれることを
初めて感じることが出来た。
それまではテニスと言っても部活内だけの世界だったんけど
そういうテニスキャンプには知らない人がどんどん集まり
一緒にレッスンしてテニスして・・・と一日過ごすと、もう晩ご飯を
食べる頃にはずっと知り合いだった気がするくらい仲間意識が
生まれるのだ。
しかも殆ど大人の人達。
高校生だった俺には、こうやって大人の人達ともテニスを
することで仲間になれることが衝撃だったし刺激的だった。
ある意味、テニスは自分にとって何か新しい言語みたいなもんで
その魔法の言語を使えると、未知の人達とも会話が出来ると
思ったよ。
結局その言語を携えることが出来たから、上京することも
平気だったし、英語やスペイン語が全く話せなくともアメリカや
スペインへ行くことが出来たからね。
俺の行動力はテニスという言語を手に入れたから身に付いたと
言っても良いくらいだね。
皆も是非、テニスを言語として大いに利用してもらいたい!
でも大事なことは、テニスが大好きな人、テニスを一生懸命
やっている人じゃないと言語としては使えないから要注意。
レベル?テニスのレベルは問題じゃない。
ご安心を。
通い選手
[過去の思い出] 投稿日時:2011/08/23(火) 11:58
選手として頑張っていた頃、当然賞金なんて
微々たるものなので、それで生活できるはずもなかった。
殆どの試合はエントリー代、交通費、宿泊費の方が
賞金よりも高くついたからね。。
儲けが出た試合の方が少ないんだよ。
なので、テニス選手と言えども本業はテニスコーチという
ことになる。
しっかりレッスンして稼がないと生活も出来ないし、テニスも
続けられないということだ。
30歳で独立するまでは、テニスコーチ派遣会社に所属して
テニススクールのコーチをしながら選手活動していた。
でもそこは選手として頑張っているコーチ兼選手を応援してくれて
いたので、試合の為の休みももらえたし、遠征費の補助、練習の
ためのコートを提供してくれたり、随分と選手活動を助けてもらった。
そういう会社に出来るだけ迷惑をかけたくない・・・という意味もあって
出来るだけ遠征に行っても、現地に宿泊しないで試合終了後は
東京に戻ってレッスンしたもんだよ。
だいたい2時間くらいの移動なら平気だから、それを目安にしてたんだけど
段々エスカレートして、山梨県の大会は通い当たり前、長野県の試合も
通ったこともあるし、新潟の試合も朝いきなり
「今日は雨で明日に順延」という決定が出た時、一度東京に
レッスンしに帰ったことがある。
でもさすがに長野県での試合の時は、試合終了後急いで
車で移動して、また翌日早朝出発・・・というのがあまりに厳しくて
3日目からは宿泊したんだけどね。
本当は選手として結果を残す為にも、ちゃんと現地に宿泊しながら
練習やコンディショニングにも専念することが大事だと思う。
でも当時の俺は、会社に感謝して試合終了後はスクールに戻って
レッスンする・・・という行動をとった方が気合は入ったよ。
本当は、試合を勝ち残っている状態で職場に戻ったら
皆に「明日も頑張って!」と励ましてもらえることが嬉しかったり
したのかも。
そんな感じで頑張っている選手、俺の他にもいっぱいいたな。
今もいるんだろうね。
頑張れ、選手達。
微々たるものなので、それで生活できるはずもなかった。
殆どの試合はエントリー代、交通費、宿泊費の方が
賞金よりも高くついたからね。。
儲けが出た試合の方が少ないんだよ。
なので、テニス選手と言えども本業はテニスコーチという
ことになる。
しっかりレッスンして稼がないと生活も出来ないし、テニスも
続けられないということだ。
30歳で独立するまでは、テニスコーチ派遣会社に所属して
テニススクールのコーチをしながら選手活動していた。
でもそこは選手として頑張っているコーチ兼選手を応援してくれて
いたので、試合の為の休みももらえたし、遠征費の補助、練習の
ためのコートを提供してくれたり、随分と選手活動を助けてもらった。
そういう会社に出来るだけ迷惑をかけたくない・・・という意味もあって
出来るだけ遠征に行っても、現地に宿泊しないで試合終了後は
東京に戻ってレッスンしたもんだよ。
だいたい2時間くらいの移動なら平気だから、それを目安にしてたんだけど
段々エスカレートして、山梨県の大会は通い当たり前、長野県の試合も
通ったこともあるし、新潟の試合も朝いきなり
「今日は雨で明日に順延」という決定が出た時、一度東京に
レッスンしに帰ったことがある。
でもさすがに長野県での試合の時は、試合終了後急いで
車で移動して、また翌日早朝出発・・・というのがあまりに厳しくて
3日目からは宿泊したんだけどね。
本当は選手として結果を残す為にも、ちゃんと現地に宿泊しながら
練習やコンディショニングにも専念することが大事だと思う。
でも当時の俺は、会社に感謝して試合終了後はスクールに戻って
レッスンする・・・という行動をとった方が気合は入ったよ。
本当は、試合を勝ち残っている状態で職場に戻ったら
皆に「明日も頑張って!」と励ましてもらえることが嬉しかったり
したのかも。
そんな感じで頑張っている選手、俺の他にもいっぱいいたな。
今もいるんだろうね。
頑張れ、選手達。
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