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てにすまん 高西ともブログ 2012/8/6
喘息という逃げ場所
[過去の思い出] 投稿日時:2012/08/06(月) 17:43
子供の頃、小児喘息を患った。
今も花粉症の時期、季節の変わり目、
風邪で体が弱っている時には発作を起こす。
はっきりとは覚えていないが、喘息の発作で苦しい
思いをしたのは幼稚園くらいからだったかな?
近所の子供たちとふざけ合って走り回るとすぐに
発作を起こし、その日の夜は母に背中をずっと
さすってもらいながらも苦しくて眠れない・・・なんて
何度もあって、その経験は未だに覚えている。
病院にも週に一回通い続けた。
母がこぐ自転車の後ろに乗って、家から数キロ離れた
病院に朝早く向かうのだ。
病院では必ず注射を打たれるが、毎週のことなので慣れっこに。
検査の時には腕に10本くらい打たれたし、太いストローみたいな
針で血を抜かれるのもお尻に打たれるのも平気だった。
そして病院の帰りには必ず母は「頑張ったね」とお子様ランチとか
パフェとか、好きなお店で好きなものをご馳走してくれた。
小学校に入ると、病院には一人で行くようになった。
行く時は、出勤する父の車に乗せてもらい、
帰りはバスで学校に遅刻して向かう。
学校には4時間目の途中くらいに着くのだが、誰も歩いていない
校舎を堂々と歩き、ガラッと教室を開けた瞬間、クラスの
皆に注目されるのは快感だった。
「俺は病人だ」
そう思うことに小学校の頃、むしろ優越感さえ覚え始めていた。
喘息の発作は苦しかった。
だが、それを皆が「かわいそう」と思ってくれるし、優しくしてくれる。
喘息は特権のように感じていた。
そんな気持ちが自分自身へ甘えをもたらした。
健康のためと習わされたスイミングも「発作出てる」と言って
ずる休みしたこともある。
とにかく苦しみながら乗り越えなきゃいけないって時に
喘息を理由にして尽く避けていたような気がする。
3年生の頃、習い始めたサッカーも、小学校の間はレギュラーに
なれなかった。
でも、悔しくなかった。
だって俺は喘息患者なんだもん。
しかし唯一父は違っていた。
まるで俺が喘息を持っているのを知らないかのように
発作が起きても「サッカーの練習行ってこい!」って言って
ゼーゼーしている俺を外に追い出したし、俺の前で平気な顔して
タバコを吸っていた。
タバコはどうかと思うが、発作が起きてもそんなことは気にせず
父は俺にサッカーの結果を求め続けた結果、小学校6年生頃から
俺は、喘息ときっちり向き合うようになっていった。
どうすれば激しい運動をしても発作が起きないように出来るか。
そして喘息を治すためにはどうすれば良いのか。
中学校に入ると、もう喘息は特権とは思わなかった。
むしろ、俺は普通の人達と同じように運動が出来るんだという
ことを、周りの人達に認めさせようとしていた。
体力が付いてくると、発作は年に数回ほどしか起きなくなったが
もうそれを同情してもらい、優しくしてもらおうとは思わないどころか
発作が起きたことで運動を制限され、それによって自分の評価が
落ちることに苛立った。
高校に入ると、発作が起きた状態でも長距離トレーニングを
全力で行ったりしてみた。
もう俺の中では喘息は無視するようにしていたのだ。
結局、俺は高校卒業してからテニスの道へ入り、選手として
活動するに至った。
そこは結果しか評価されない世界。
自らそういう世界に身を置き、その活動を10年以上も
続けられたことは本当に幸せだと感じる。
それも、喘息で苦しんでいる俺の前でタバコをスパスパ
吸っていた父のおかげかもしれない。
今、世の中にはもっと大きな障害を抱えながらも頑張って
スポーツしている選手たちがいるが、そう考えると彼らの
障害の部分に目を向けながら応援することはどうかと思う。
あくまでも一人の人間としての結果を評価すべきであり
「大変なのに頑張っているね」という応援は単なる同情である。
もしかしたら、その同情によって甘えていた小学校時代の
俺のように、優しくしてもらうことで満足してしまう人間が
生まれてしまうこともあるかもしれない。
俺も一歩間違えば、そのまま何事にもチャレンジせず
「どうせ俺は」の人生を送っていたかもね。
障害を乗り越えて強くなった人もいるが、障害に心を
委ねてしまった人も多いんじゃないかな。
今も花粉症の時期、季節の変わり目、
風邪で体が弱っている時には発作を起こす。
はっきりとは覚えていないが、喘息の発作で苦しい
思いをしたのは幼稚園くらいからだったかな?
近所の子供たちとふざけ合って走り回るとすぐに
発作を起こし、その日の夜は母に背中をずっと
さすってもらいながらも苦しくて眠れない・・・なんて
何度もあって、その経験は未だに覚えている。
病院にも週に一回通い続けた。
母がこぐ自転車の後ろに乗って、家から数キロ離れた
病院に朝早く向かうのだ。
病院では必ず注射を打たれるが、毎週のことなので慣れっこに。
検査の時には腕に10本くらい打たれたし、太いストローみたいな
針で血を抜かれるのもお尻に打たれるのも平気だった。
そして病院の帰りには必ず母は「頑張ったね」とお子様ランチとか
パフェとか、好きなお店で好きなものをご馳走してくれた。
小学校に入ると、病院には一人で行くようになった。
行く時は、出勤する父の車に乗せてもらい、
帰りはバスで学校に遅刻して向かう。
学校には4時間目の途中くらいに着くのだが、誰も歩いていない
校舎を堂々と歩き、ガラッと教室を開けた瞬間、クラスの
皆に注目されるのは快感だった。
「俺は病人だ」
そう思うことに小学校の頃、むしろ優越感さえ覚え始めていた。
喘息の発作は苦しかった。
だが、それを皆が「かわいそう」と思ってくれるし、優しくしてくれる。
喘息は特権のように感じていた。
そんな気持ちが自分自身へ甘えをもたらした。
健康のためと習わされたスイミングも「発作出てる」と言って
ずる休みしたこともある。
とにかく苦しみながら乗り越えなきゃいけないって時に
喘息を理由にして尽く避けていたような気がする。
3年生の頃、習い始めたサッカーも、小学校の間はレギュラーに
なれなかった。
でも、悔しくなかった。
だって俺は喘息患者なんだもん。
しかし唯一父は違っていた。
まるで俺が喘息を持っているのを知らないかのように
発作が起きても「サッカーの練習行ってこい!」って言って
ゼーゼーしている俺を外に追い出したし、俺の前で平気な顔して
タバコを吸っていた。
タバコはどうかと思うが、発作が起きてもそんなことは気にせず
父は俺にサッカーの結果を求め続けた結果、小学校6年生頃から
俺は、喘息ときっちり向き合うようになっていった。
どうすれば激しい運動をしても発作が起きないように出来るか。
そして喘息を治すためにはどうすれば良いのか。
中学校に入ると、もう喘息は特権とは思わなかった。
むしろ、俺は普通の人達と同じように運動が出来るんだという
ことを、周りの人達に認めさせようとしていた。
体力が付いてくると、発作は年に数回ほどしか起きなくなったが
もうそれを同情してもらい、優しくしてもらおうとは思わないどころか
発作が起きたことで運動を制限され、それによって自分の評価が
落ちることに苛立った。
高校に入ると、発作が起きた状態でも長距離トレーニングを
全力で行ったりしてみた。
もう俺の中では喘息は無視するようにしていたのだ。
結局、俺は高校卒業してからテニスの道へ入り、選手として
活動するに至った。
そこは結果しか評価されない世界。
自らそういう世界に身を置き、その活動を10年以上も
続けられたことは本当に幸せだと感じる。
それも、喘息で苦しんでいる俺の前でタバコをスパスパ
吸っていた父のおかげかもしれない。
今、世の中にはもっと大きな障害を抱えながらも頑張って
スポーツしている選手たちがいるが、そう考えると彼らの
障害の部分に目を向けながら応援することはどうかと思う。
あくまでも一人の人間としての結果を評価すべきであり
「大変なのに頑張っているね」という応援は単なる同情である。
もしかしたら、その同情によって甘えていた小学校時代の
俺のように、優しくしてもらうことで満足してしまう人間が
生まれてしまうこともあるかもしれない。
俺も一歩間違えば、そのまま何事にもチャレンジせず
「どうせ俺は」の人生を送っていたかもね。
障害を乗り越えて強くなった人もいるが、障害に心を
委ねてしまった人も多いんじゃないかな。
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