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自分との向き合い方[てにすまん 高西ともブログ]

投稿日時:2014/06/11(水) 13:07

人間は社会で生きている。
どんなに有能な人でも、どんなにタフな人でも
社会で生きている以上他人の助けが必要だし、誰かと
関わってないと生きていけない。
その中で当然社会性は身に付いていないといけないし、
そんな人間社会の中で自分がどういう位置にいるとか、どういう
風に見られているのか、良くも悪くも気にする習性が
人間には染み付いているものだ。
 
ところでテニスというものは、自分自身と向き合わないと
いけない場面がたくさんある。
コーチや仲間の助言が受けられないテニスの試合中は
自分だけが頼りになる。
ダブルスはペアがフォローしてくれる場合もあるが、その
ペアが崩壊してしまったら自分のテニスを自分自身で
何とかしないといけない。
試合だけじゃなく、練習中もトレーニング中も自分という
人間と向き合い、課題に取り組まないといけない。
もっと言えば信頼出来るコーチや仲間と一緒に練習を
していたとしても、自分という人間をちゃんと確立させて
おかないと何も考えられないようになり、成長はどこかで
止まってしまう。
アドバイスや助言、励ましの言葉なんて単なる上達の糸口を
もらったに過ぎず、それをキッカケとして自分がそこから
次のステップに自身の力で這い上がらないといけないし、
そもそもそのアドバイスが自分にとって合っているのかを
判断するということも、自分と向き合っていない人には
出来ないでしょ?
 
そんな自分自身と向き合う時にどういうキャラクターで
自分を見るのが良いのだろうか。
俺が選手時代から意識してきたことは、「社会の目」という
位置付けを出来る限り意識したのだ。
「社会の目」という目で自分自身を見つめると、そこには
個人的な私情は湧かないし、感情というものも発生しにくい。
「社会の目」から見た自分は味方でもなく敵でもないから、
ありのままの自分を素直に客観的に見つめられるから、欠点や
問題点、特徴や状態を把握しやすいのだ。
でもそれより何より、「社会の目」で見られているということを
自分自身が意識することで、変な言い訳をしたり誤摩化したり
することが出来なくなるし、自分がどういう目的で現在それに
取り組んでいるかというコンセプトを常に誰かに話せる状態になる。
当然誰も見ていない場面、例えばトレーニング中の最中も
常に自分は見られているということを意識することで、
良い緊張感を持続出来たりする。
 
もし自分と向き合うキャラが、「自分のこと大好き」という
要素しか無い偏った性格を持っているとどうなるか。
まず自分の都合の良いように何でもかんでも解釈するだろうね。
試合で負けても「相手が強すぎた」とか「ちょっと肘が痛かった」
なんて言い訳を考え、「君は悪くないんだよ」「運が悪かっただけ」
なんて原因究明も中途半端になる。
もちろん自分のことを信じている部分は大きいので、それを
活かして強気で大胆な行動を起こす可能性もあるけど、方向性や
やり方がマズい場合でも周りの意見を聞けなかったりするどころか
そういったアドバイスを「自分への攻撃」として殻を作って
閉じこもったりする傾向になりやすい。
 
逆に「自分という人間が好きじゃない」というタイプで
自分と向き合うのも厳しい。
自分の欠点ばかり目が行くし、周りの人達と自分を比較して
ばかりいる。
無い物ねだりなうえに、目標設定は低くてしかもそれさえも
「自分には無理かも」って思っていたりする。
トライしようとする人間は今現在の自分が不十分と思っている
のだから、当然不満や不安はたくさんあるはず。
だけどそれを私情や感情を通して自分と向き合ってしまうと
そこにストレスが発生し、前に進むための方法を考えるより
なんで自分はこうなんだろうって我が身の不幸に打ち拉がれる。
 
がむしゃらになって何かに取り組めている時期って楽しいが
テニスなんてやった分だけ上手くなるスポーツじゃない。
試合中も一つのことをずっとやっていても勝てない。
上手くいかなかったり、泥沼状態にはまった時にふと
立ち止まって自分と向き合ってみた時、結局自分自身に発する
一言は常にこれなんだよ。
「また一歩ずつ前へ踏み出しましょう」
当たり前のこの一言を自分に向けて発せられるようにするには
自分と向き合うキャラをちゃんと「社会の目」的な一枚自分と
距離を置いたドライで少し距離を置いた感じで設定して
おかないと、変に同情したり自分自身に苛立ったりしてしまう。
自分自身に対し、人ごとのように言えるようになるのが
重要なのかもね。

負けて当たり前[てにすまん 高西ともブログ]

投稿日時:2014/05/04(日) 13:17

テニスというのは難しいスポーツだ。
相手よりショットが優れているからと言って、
絶対勝てる保証はない。
相手より速い足を持っていても、相手より身長が高くても
相手より腕力があっても、相手より体力が勝っていても
それが勝利を確実にしてくれることには繋がらない。
 
負ける理由なんていくらでもある。
相手が強かったらそりゃ、負けるでしょう。
でもそういう相手じゃない場合にも負けることはある。
調子が上がらないまま試合を続けてれば負けるし、
調子が上がっても、大事な場面で勝負が出来なかったら
それで負けてしまうこともある。
 
コートサーフェースに馴染めなくて負けることも
あるだろうし、相手のプレースタイルとの相性が
悪くて負けることもある。
試合の緊張感で負けることもあるし、練習不足や
試合前の準備不足で負けることもある。
風が強ければそれで負けることもあるし、夏の暑さも
負けの要因になるのは当たり前。
練習ではニューボールを使っていないから、試合中の
ボールの感触の違いで負けることも考えられる。
 
相手が格下であったとしても、ロブが上手かったり、
スライスが得意だったりと、思った以上に粘り強くて
精神的にもタフだったということでこちらが調子を
落として負ける・・・なんてこともよくある。
相手の汚いジャッジや、スコアでもめたことを
キッカケに負けてしまうこともある。
負ける原因なんていくらでもあるんだから、負けることは
何も不思議ではない。
だから負けそうな試合状況になった時、いくらでも
その負けの敗因は思い付くもんなんだよ。
「だから、俺は負けたんだ」
皆にそれをちゃんと説明出来るし、それで周りを納得
させることも容易なことである。
 
さて、「負ける理由」がいくらでも思い付く反面、
「負けられない理由」はどれだけ頭に浮かぶだろうか。
自分より格下の相手であっても「負けることがある」という
テニスというスポーツにおいて、「負けられない」という
気持ちが強力な対抗馬となり、実はそこに勝利への道が
開かれる。
その「負けられない理由」が単なるプライドという
曖昧なものでは弱く、それはもっと具体的で、ある意味
自分に対して脅迫的なものに近いものなのだ。
 
例えば団体戦という形で自分の勝利が絶対必要と
されている場合だったり、決勝に進み、初のタイトルが
掛かっているなど、戦績や賞金であったり。
その試合に辿り着くまでにこなしてきた練習やトレーニングの
苦しさや費やした時間、そして金額だったり。
自分がそれまで築いてきた地位だったり。
周りの期待だったり。
応援してくれている周りの仲間や家族だったり。
とにかく負ける理由は山ほど思い付くのだが、それ以上に
「それでも俺は負けられないんだよ!」という気持ちがあれば
「負ける理由」以上に「負けられない理由」が優先され、
そしてその状態にならないと、選手は「勝つ方法」を試合中に
本気で考えられないのだ。
「負けられない理由」が乏しい人は残念ながら
「負ける理由」の方を優先してしまい、気付くと試合中、
自分の負けの正当性を必死で探したり、既に反省を始めたり
酷いやつなんかは、自ら負ける理由を大げさに周囲へPRしたり
するもんだ。
 
「負けられない理由」
必ずしも、トップアスリートや常勝選手にしか当てはまる
ことではない。
いつも負けてばかりの人、テニスを初めてまだ間もない人、
どんな人も、探せばあるんだよ。
そしてその気持ちを強く感じることが出来なければ、試合中に
どんどん襲ってくる「負ける理由」に目を向け、心を奪われて
しまい、勝利への道は閉ざされ、敗者の道を無様に歩かされるのだ。
そしてまた「やっぱり負けました」ということとなる。
「負けられない理由」は時に自分自身へプレッシャーを与え、
それがより試合中のストレスを増やすこととなる。
でもね、負けて悔しい思いをしながらもそれを隠して
くだらない「負ける理由」を語るより、試合中に
「負けられない理由」で苦しみながらも自分を支え、
勝利を導いて、その勝利を勝ち取った方が100万倍嬉しいはず。
 
「負けられない」その要素をたくさん用意して試合に挑め。

バレーボールをやってみました[てにすまん 高西ともブログ]

投稿日時:2013/09/25(水) 10:00

つい最近の話。
とあるテニス合宿で大雨が降って体育館に移動。
そこで「バレーボールやろっか!?」という話になり、
皆でネットを張ってバレーボールを楽しんだ。
バレーボールの経験は、中学、高校の授業でやった以来かな。
 
でも実は小学校の頃、バレーボールやっていた
いとこの試合に人数が足りないということで助っ人で
出場した経験あり。
とにかくサッカーも小学校から中学校までやっていたし、
バスケ、バレーボールという球技の類いは同じ球技である
プロテニス選手としては負けられないでしょ・・・と思っていた。
俺が皆よりも活躍しちゃうかも・・・なんてことまで思っていたよ。
そんなヒーロー気取りの俺はこの後自分がどうなるかなんて
全然想像もしていなかったのだ。
 
そして試合が始まって数分でそんな「活躍するかも」って気分は
崩れ去ったのだった。
最初にやらかしたのは、飛んで来た相手サーブ(もちろん相手も素人)を
「はーい!」と軽く受けようとレシーブしたのが全然違う方向へ
飛んで行ってしまったミス。
今思うと恐らくこれは単なるミスだったんだろう。
ちゃんと腰を落としてボールの真後ろへ入ってレシーブすれば
良かったんだと思う。
でも深く考えないで甘く見ていた俺は、ここで続けて同じような
ミスをしてしまう・・・。
この無反省状態でのミスが問題だった。
そのミスが大きく心に響いてしまい、とんでもない気持ちが
芽生え始めてしまったのがマズかった。
それは、「俺はバレーボールが出来ない人って思われてる」
という焦りの気持ち。
当初想定していた「ヒーロー」とは真逆の「ダメな人」という
結果にオロオロしてしまう。
 
そうなると今度は、そのミスを取り返そうとする「余計な動き」が
出始め、それによって又更にミスを重ねるとその次は
「またミスするかも」という「自己不信」に陥ってボールをついつい
避けるようになる・・・という状況に移行して行った。
そこまで心理状態が落ちるとこんな気持ちが新たに湧いて来た。
それは「恥ずかしい」という気持ち。
レシーブミスも多いしサーブも無様で一向に活躍しないどころか
皆の足を引っ張っている・・・というキャラクターでいる自分が
恥ずかしいと感じ始めたのだ。
そう思い始めるとバレーボールが楽しいとか、仲間と皆で一緒に
スポーツをしている楽しみを全く感じられなくなってしまう状態に
なり、極端に言うと皆と一緒にいたくなくて一人になりたいって感じ。
 
ま、何とか次の試合の時には心入れ替えて無難にレシーブして
無難にサーブも入れて活躍はしないものの、チームの一員として
皆で楽しめるバレーボールが出来たけど、1試合目の酷さは
周りの皆にも自分にも衝撃的でかなり気持ちは引きずってしまった。
では何が問題だったのか・・・と分析すると、もちろん技術的な
ことはもちろんなんだけど、それ以外の精神的な部分で考えてみると
大きな問題点は2つあったと思われる。
それは「自分の現状を理解していなかった」ということと
「チームの勝利を優先しなかった」ということ。
 
過去、小学校、中学校、高校の頃の元気で動き回れる自分の
イメージで臨んでしまったのもマズかったけど、最初のミスの後に
「そんなはずはない」と現状から目を逸らしていたために
出来ない自分を受け入れられなかったがそもそも間違い。
「活躍出来るかもしれないけど、最悪の状態も想定するという幅の
ある自分をイメージして試合に臨む」・・・これが正解だったのだ。
「チームの勝利」を優先しないで「俺はヒーロー」って期待して
スタートしたのも、ミス直後の反省を忘れてしまった要因だし
更なるミスを生んだのだ。
「ミスする自分が恥ずかしい」と思ったのも、勝手にハードルを
上げて自分を持ち上げていたからだよね。
現状を冷静に分析することと、下手でもチームのために何が
出来るのかがちゃんと分かっていればアタフタすることも
少なかったと思われる。
 
テニスのレッスンの中でラケットを大振りしている生徒を見付けると
「ボールってしっかり打たないと飛ばないって思ってません?」って
声を掛けることがある。
焦っている人って、「振らなきゃ飛ばない」って思っているからね。
でも同じようにバレーボールで焦りがピークにあった時の俺は、
サーブを打つ時、そのボールがまるでボーリング玉のような
全く飛ばない物体に思えたよ。
結果はその通りホントのボーリング玉のように転がっていった。
あの瞬間は顔から火が出るくらい恥ずかしかったけど、自分の頭が
精神状態によって、そこまで働かなくなるのかって驚きもあった。
 
ま、一応心理状態の変化の流れを表すために心情をちょっと大げさに
書いたけど、実際は終止楽しくバレーボールはやりましたよ。
でも今回、気持ちの立て直しには慣れていると思っていた自分が
こうも堕ちて行ったのは、テニスをしている時の自分は自分自身に
相当信じてもらえているのだと思った。
テニスはどんなにダメでも冷静に自分を立て直す術を探すし
期待を最後まで持ち続ける。
でも今回のバレーボールはダメだったね。
自分自身に期待ばかりしておいて、ダメだと
「またミスするんじゃないの?」って思ってしまうし
挙げ句の果てに自分が自分の姿を「恥ずかしい」なんて
思ってしまうんだから。
また次、バレーボールやる時は心してやらないとね。
でも・・・皆に内緒でちょっと練習もしておこうっと。

苦しい状況から逃げたくなるヤツは・・・。[てにすまん 高西ともブログ]

投稿日時:2012/08/08(水) 10:10

テニスの試合って辛いことが多い。
それは体力的にもそうだし、精神的にもそうだ。
でもレベルが上がっていけば行くほど、その辛さは
大きくなっていく。
低いレベルの時にはちょっと粘ればすぐに崩れる
相手が多かったのに、自分のテニスレベルが上がって
上位に勝ち進めるようになるほど、崩しても崩しても、
そこから立て直して黙々とプレーを続ける相手との
戦いとなるからね。
そんな相手から勝利を挙げるには、かなり厳しい状況を
当たり前と思いながらプレーしてないといけない。
 
その為には普段から、ハードな練習やトレーニングを
こなしておかないといけないんだけど、ただ体力を付けたり
動きを良くする為に行うんじゃなくて、大事なことはハードな
練習やトレーニングの真っ最中に平常心を保つように
意識出来るかどうか・・・なんだよ。
言わば、体力的なことと脳を別にしてもらいたいのだ。
 
例えば、全力でダッシュを行うとする。
ダッシュだから体力は一気に無くなり、息も上がり、
呼吸困難な状態になっていく。
これはかなりキツい状態で苦しい。
「もうダメだ!!走れない!!」
そんなヘロヘロの状態になったとする。
でも・・・脳だけはまるで別の人間のようにいて欲しいのだ。
ヘロヘロ人間になりながらも、脳だけは冷静に、そこから
どうやって体をスムーズに動かせるようにするかを考え、
そして体は苦しんでいるのに、冷静にそこからもっとペースアップ
させるための指示を出してもらいたいのだ。
そういう客観的な立場の脳を作るための練習をしないと
いけないんだよね。
 
しんどい、辛い・・・ってことは体が感じていることであり、
そこから精神的苦痛に発展させてもらいたくない。
最初にも言ったように、そもそもテニスの試合はレベルアップを
すると共に苦しい試合が当たり前となるので、体力的苦痛を
感じるたびにイチイチ精神面にも影響を及ぼされたら
間違いなく「苦しい→逃げよう」という法則が出来上がってしまう。
そもそもテニスには精神的苦痛が付きもの。
まず負けていたら当たり前に精神的苦痛を感じる。
だけどリードしている方もよっぽど相手とレベル差が無い限り
プレッシャーがのしかかる。
競っている試合も当然精神面の負担は大きい。
それだけ神経をすり減らして頑張っているうえに、体力的に
キツいことさえも精神的ダメージで加わると、もうその試合は
負けてもいいから早く終わらせようって思ってしまうよ。
 
テニスの試合とは体力的に苦しいものである。
精神的にもキツいものである。
そういうことが分かるようになって、それを当たり前のようにして
テニスができると、体力面で苦しい状況でも自分の脳はそこから
どういう体の使い方をすればベストなパフォーマンスが出来るか
指示してくれるし、精神面で苦しい状況でも感情的にならず
平常心保って状況判断出来るようにしてくれる。
そして更に、そういう体力的、精神的苦痛な状況に慣れ、
そこから勝利を挙げる経験が増えてくると、逆に苦しい場面に
なるほど、気持ちも身体も信じられないくらい良い動きを
するようになるのだ。
 
楽に勝つ。
そんな試合はトーナメントの初戦くらいなもんだよ。
皆が目指しているのはそこじゃない。
自分と同じレベル以下には確実に勝ち、そして格上から
勝利を挙げていかないと。
その為にはそうとう体力面でも精神面でも苦しい試合を
こなし続けないといけない。
でもそれが普通であり、そういう世界にいるんだよね。
体力的にも精神的にも苦しい時に、ニコって笑える選手に
ならないといけないよ。

心の中の頼もしい味方[てにすまん 高西ともブログ]

投稿日時:2012/07/27(金) 13:27

テニスの試合中、自分で自分によく声を掛ける。
「お前は何やってるの?」とか「バカだな。」という
批判めいた言葉の時もあれば、
「大丈夫!」「まだまだお前はやれる」といった
激励の言葉の時もある。
「ちょっと熱くなり過ぎじゃない?」とか
「このやり方でいいの?」といった
感じで意見することも多いね。
声を掛けると言っても、だいたいは頭の中で
思う程度なんだけど、場合によっては実際、
声に出して自分に言い聞かせる時もあるし、
叫んだことも一度や二度じゃない。
 
話し掛けているのは紛れもなく自分自身である。
だから自分の考えを独り言のように言っているのかと言うと、
そうではなく、客観的な立場からの一般論を自分が
自分自身に言っている。
だから、自分の中にもう一人誰かがいて、その別人が常に
話し掛けてくれる感じだ。
そしてその別人さんは感情に流されないし、弱気な発言もしない。
いつも冷静な立場で話し掛けてくれるのだ。
だからコーチみたいな感じかと言うと、それはちょっと違う。
具体的な戦術のアドバイスやフォームのチェックは
その別人が決めるのではなく、自分で考え、自分で決める。
その別人さんはただ自分が決めたことや起こした行動、
それまでの結果などをチェックして一般論として意見するだけ。
 
その別人さんが試合中に話し掛けてくれる時は、気持ちが
落ち着いてプレーに専念できる。
思い切ったことをやる時も、「うん、いけるよ!」って励まして
自信を与えてくれるし、ピンチに陥っても「大丈夫だよ!」って
希望と可能性を常に意識させてくれるから、気持ちが途切れる
ことがない。
本当に頼もしい別人さんである。
 
だけど、昔はこんな頼りになる別人さんじゃなかった。
まだ試合で勝てない頃はとてつもなく足を引っ張る
存在だったのだ。
思い切ったことをやろうとすると、
「え~!!どうせミスするんじゃない?」って頭を
過ぎらせたり、ピンチに陥ると「無理だよ、もう勝てない!」って
試合を放棄させようとする言葉を投げかけてくる。
その言葉によって、不安や焦りが膨らんでラケットが
振れなかったり、チャンスで攻めきれなかったりした。
でも考えてみれば、これもやっぱり心の中の別人さんが
その段階での経験データを基に一般論を述べただけだから
正当な評価なのかもしれない。
まだまだ勝てないテニスをしていた当時の俺は、思い切った
ことをした時は殆どミスしていたし、負けそうな試合はそのまま
粘れず、素直に負けていたからね。
 
そんな心の中の別人さんが頼もしい存在に成長してくれたのは
とにかくたくさん練習して、たくさん大会に出場して、たくさん
いろんな人のテニスを見たり、一緒に対戦したことで、
テニスというスポーツには色んなパターンや戦い方があり、
ピンチの場面でも工夫すれば乗り越えられる術があるという
データが揃うようになってから。
多くの経験を経てやっと心の中にいる別人さんは前向きな
評価を試合中にしてくれるようになり、「大丈夫!」って
言ってくれるようになったんだよ。
 
試合中の苦しい場面では、絶対自分のことを信じていないと
乗り越えることは出来ない。
でも自分のことを信じる為には、ただ「信じろ!」だけでは
無理なんだよね。
たくさん玉数を打ち、多くの人と練習し、色んなトレーニングし、
もちろんたくさん試合もこなし、色んな上手い選手のプレーを
見ることでやっと自分が自分を信じることが出来る。
まだまだ自分の中にいる別人さんが、自分自身のことを
「どうせ、無理なんじゃない?」って言う場合は、つべこべ言わずに
もっと多くの経験を積めるような行動を取らないとね。
多くのデータを収集して、心強い別人さんを心の中に育ててね。
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