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てにすまん 高西ともからのメッセージブログ
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両立させるからこそ価値がある。[てにすまん 高西ともブログ]
投稿日時:2012/07/25(水) 16:00
18才で上京してテニスコーチの派遣会社に
就職し、テニススクールでコーチしながら選手活動を
していたのだが、30歳で退職。
ま、若気のいたりもあって辞めたのだが、次に何か
あてがあった訳でもなく、勢いで辞めると言ってしまった。
そのくせ選手活動はまだ続けたいと思っていたので、
練習やトレーニングをしながら次の仕事を探した。
色んなスクールからお話をもらえたことは嬉しかったけど
「月2大会ほど大会には出場するんですが・・・」と告げると
「う~ん、じゃあ厳しいかな」となる。
どこもそこまでレッスンを休まれると厳しいのだ。
それでも何とか貯金を切り崩しながら試合にエントリーして
練習してトレーニングして、選手活動を続けていた。
大会に出場すると賞金は出るんだけど、そんなのエントリー代や
遠征の交通費、宿泊費、滞在費なんかで消えるどころか、
赤字になることが殆ど。
出場しないほうがマシなくらい。
しかし貯金が減り続けても「選手を辞めよう」って思わなかった。
「お金が無いなぁ」って感じながらも、変わらず全国各地の
試合に出場し続けた。
ある時には1週間、海外に遠征も行ってきた。
スペインのカナリア諸島で開催されたチャレンジャー大会に
行ってきたんだけど、さすがに帰国したあと、通帳を見て
そこに記されていた残高3万円の数字を見た時には
選手活動の危機を感じた。
でも、やっぱり「終わりだな」って思わなかった。
3万円でどうやって選手活動を続けるのかって
考えていたよ。
しかしそれから、色んな選手仲間や元職場のコーチ仲間から
情報をもらったり仕事を紹介してもらい、徐々に仕事が
増えるようになったのだ。
でもそうやって仕事を斡旋してくれた人たちは口を揃えて
同じことを言っていた。
「選手活動もコーチ業も、両方頑張っているから紹介した」
借金はしなかったけど、どんどん自分のテニスにお金をかけて
まで頑張った分、幸運なことに、それが自分の仕事として
跳ね返ってきたのだ。
18才でテニスコーチを本業として頑張り始めた時には
会社の命令で義務練習と試合に出場していた。
それは選手活動で得た経験をレッスンに活かせ・・・という
会社の方針だったのだ。
特に選手活動には興味なかった俺も、命令じゃ仕方ないと
渋々頑張っていたんだけど、段々と選手の世界へのめり込むと
同時に、レッスンのための選手活動が、いつの間にか選手活動の
資金集めのためのレッスンというスタンスになっていった。
もちろんレッスンは手を抜かずしっかりとやったけど、
頭の中には自分がレベルアップすることの方が占めていた。
でもここに来て、会社という後ろ盾がなくなり、その中で
選手という活動をしていかないといけなくなったときに、
自分の立場というものがはっきりと認識できた。
それは「テニス選手コーチ」であるということ。
レッスンは選手活動のためでもあり、選手活動は
レッスンのためでもある。
コーチの立場も選手の立場も、両方プロとしてベストを尽くす
からこそ、両方が成り立っているんだなって。
本当はスポンサーが付いて、テニスだけやってりゃあ
いいような選手活動をしたかったんだよ。
コーチ業は嫌いじゃないけど、選手の活動に専念したいと
思っていた。
もちろん32才で引退するまでその希望は変わらなかったけど
心の中では、選手とコーチ、両方のプロとして生きていく
ことを誇りに感じるようになっていった。
だって選手として頑張って結果を出した分、それが仕事の本数に
反映されたし、そういう形で仕事が盛り上がった分だけ
また選手活動も活発に出来るようになったから。
レッスンなんて、いくらでももらえるもんだ・・・って会社に
いる頃は思っていた。
だけどフリーになって初めてレッスン出来る幸せを、
感じたし、そのレッスンが自分自身の選手活動によって
生み出されるって分かったら、益々両方に対してプロ意識が
芽生えた。
「テニス選手コーチ」
今の日本のテニス界にはこういう選手がたくさんいる。
両立の難しさはあるけれど、両立させるからこそ価値がある。
就職し、テニススクールでコーチしながら選手活動を
していたのだが、30歳で退職。
ま、若気のいたりもあって辞めたのだが、次に何か
あてがあった訳でもなく、勢いで辞めると言ってしまった。
そのくせ選手活動はまだ続けたいと思っていたので、
練習やトレーニングをしながら次の仕事を探した。
色んなスクールからお話をもらえたことは嬉しかったけど
「月2大会ほど大会には出場するんですが・・・」と告げると
「う~ん、じゃあ厳しいかな」となる。
どこもそこまでレッスンを休まれると厳しいのだ。
それでも何とか貯金を切り崩しながら試合にエントリーして
練習してトレーニングして、選手活動を続けていた。
大会に出場すると賞金は出るんだけど、そんなのエントリー代や
遠征の交通費、宿泊費、滞在費なんかで消えるどころか、
赤字になることが殆ど。
出場しないほうがマシなくらい。
しかし貯金が減り続けても「選手を辞めよう」って思わなかった。
「お金が無いなぁ」って感じながらも、変わらず全国各地の
試合に出場し続けた。
ある時には1週間、海外に遠征も行ってきた。
スペインのカナリア諸島で開催されたチャレンジャー大会に
行ってきたんだけど、さすがに帰国したあと、通帳を見て
そこに記されていた残高3万円の数字を見た時には
選手活動の危機を感じた。
でも、やっぱり「終わりだな」って思わなかった。
3万円でどうやって選手活動を続けるのかって
考えていたよ。
しかしそれから、色んな選手仲間や元職場のコーチ仲間から
情報をもらったり仕事を紹介してもらい、徐々に仕事が
増えるようになったのだ。
でもそうやって仕事を斡旋してくれた人たちは口を揃えて
同じことを言っていた。
「選手活動もコーチ業も、両方頑張っているから紹介した」
借金はしなかったけど、どんどん自分のテニスにお金をかけて
まで頑張った分、幸運なことに、それが自分の仕事として
跳ね返ってきたのだ。
18才でテニスコーチを本業として頑張り始めた時には
会社の命令で義務練習と試合に出場していた。
それは選手活動で得た経験をレッスンに活かせ・・・という
会社の方針だったのだ。
特に選手活動には興味なかった俺も、命令じゃ仕方ないと
渋々頑張っていたんだけど、段々と選手の世界へのめり込むと
同時に、レッスンのための選手活動が、いつの間にか選手活動の
資金集めのためのレッスンというスタンスになっていった。
もちろんレッスンは手を抜かずしっかりとやったけど、
頭の中には自分がレベルアップすることの方が占めていた。
でもここに来て、会社という後ろ盾がなくなり、その中で
選手という活動をしていかないといけなくなったときに、
自分の立場というものがはっきりと認識できた。
それは「テニス選手コーチ」であるということ。
レッスンは選手活動のためでもあり、選手活動は
レッスンのためでもある。
コーチの立場も選手の立場も、両方プロとしてベストを尽くす
からこそ、両方が成り立っているんだなって。
本当はスポンサーが付いて、テニスだけやってりゃあ
いいような選手活動をしたかったんだよ。
コーチ業は嫌いじゃないけど、選手の活動に専念したいと
思っていた。
もちろん32才で引退するまでその希望は変わらなかったけど
心の中では、選手とコーチ、両方のプロとして生きていく
ことを誇りに感じるようになっていった。
だって選手として頑張って結果を出した分、それが仕事の本数に
反映されたし、そういう形で仕事が盛り上がった分だけ
また選手活動も活発に出来るようになったから。
レッスンなんて、いくらでももらえるもんだ・・・って会社に
いる頃は思っていた。
だけどフリーになって初めてレッスン出来る幸せを、
感じたし、そのレッスンが自分自身の選手活動によって
生み出されるって分かったら、益々両方に対してプロ意識が
芽生えた。
「テニス選手コーチ」
今の日本のテニス界にはこういう選手がたくさんいる。
両立の難しさはあるけれど、両立させるからこそ価値がある。
アンダーサーブ使ってでも勝ちたかった[てにすまん 高西ともブログ]
投稿日時:2012/07/17(火) 21:22
夏休みに入ると、だいたいどこのテニス部も
普段はなかなか出来ない部内戦を行う。
俺が高校の時にも、何度か部内戦を行なった。
俺の部内戦の戦績?
高校テニス部時代、負け無し!
入学して最初の部内戦で全勝してナンバー1となり
引退するまでその座を誰にも譲らなかった。
こう書くと華やかに高校テニス界にデビューしたような
感じに思えるかもしれないが、実際のところは
もっと泥臭く、カッコイイものではない。
そもそも俺が入った高校のテニス部には一つ上の
2年生が一人もいなかったので、まずは新入生だけの
部内戦だったし、その新入生は俺も含めて皆初心者。
その中でも俺は両親がテニスやっていたから、初心者と
言えども、年に数回はラケットでボールを打ったことが
あったから、その分だけ皆よりアドバンテージあって
ナンバー1になれたのだ。
でもこの一回目の部内戦の思い出はあまりない。
なんとなく皆で試合をやって、なんとなく勝った感じ。
一番印象に残っている部内戦は2年生になってからだ。
新一年生も交えての戦いなんだけど、それまで1年間
ナンバー1の座を守り通してきた俺としては、絶対に
負けられない戦いで、凄いプレッシャーだったのだ。
学校にはコートが2面しか無いから、部内戦は近くの公営の
コートを借りて行われた。
上位の5名でリーグを行い、最下位の人は更に下のリーグの
勝者と入れ替え戦を行う。
1年間ナンバー1を守り抜いた・・・と言っても、弱小テニス部の
ことだから、そんな大したテニスが出来るわけじゃない。
それはまさに、どんぐりの背比べであった。
それでも俺は「俺がナンバー1なんだ!!」って何度も自分に
言い聞かせて頑張った。
頑張った・・・と言っても、出来ることと言えば繋ぎ続けるだけ。
いつもは打ち抜く練習ばかりやってるクセして、こういう試合に
なると、バックだけでなくフォアまでもスライスで繋ぐしか
出来なくなるのだ。
でもどんぐりの背比べだから、相手も同じこと。
二人とも腕を縮こませて、ショートラリーのように繋ぎながら
シングルスをして相手のミスを待ち続ける。
そして相手がミスすると、まるでスーパーショットを決めた
選手のように「よっしゃー!!!!」と叫ぶ。
ピンチの時のセカンドサーブはもちろんアンダー。
そんなテニスで次々相手を倒したが、うーん・・・どれも
7-5とか6-4みたいな接戦だったと思う。
ほんのちょっとだけ俺の方が我慢強くて、体力があっただけ。
おかげでその部内戦も制して、ナンバー1の座を勝ち取ったのだ。
弱小テニス部のナンバー1という座。
そんな内容のテニスだったから、大して価値は無い・・・なんて
ことはなかったのだ。
ナンバー1になった俺は、とにかくその座を守るために
毎日のランニングを頑張った。
高2の夏休みに初めて体験したテニスコーチのバイトも
ナンバー1というプライドがあったから何とかトライできた。
自分のテニスには全然自信は無かったけど、俺は
この高校のテニス部ナンバー1なんだって、常に思うことで
前に進むことが出来た。
どんぐりの背比べでも、一番になったどんぐりはやっぱり
誇る権利があるわけだし、それをキッカケにして世界が
広がる可能性が出てくる。
そして俺はその後、テニスコーチに就職し、そこから
選手になり、プロになり、引退後もこうやってテニス業界に
飯を食うことが出来ている。
たかだか無名の高校の部内戦。
戦っている選手も無名だし、レベルも大したことない。
だけど戦っている選手たちは真剣だ。
「負けたくない」「勝ちたい」その気持ちがグルグル回り続け、
吐き気がするほどの精神的苦痛に襲われながら、
コートに立っているのだ。
俺はたまたま全勝という記録を作れたけど、負ける可能性も
十分にあった。
負けて、ナンバー1から転落していたらどうなっていただろう。
その悔しさをバネにして更に頑張っていたかな?
自暴自棄になって、テニスなんて辞めていたかも。
でも間違いなく、部内戦でナンバー1を勝ち取ったことで今がある。
高2までアンダーサーブ使わないとセカンドが入らなかったという
技術は明らかに練習不足なので反省しないといけないが、
それを使ってでも勝ちたいって、プライド捨てて思った当時の
自分には今でも「ナイス!」って思う。
全国のテニス部で行われている部内戦、それぞれ奥の深い
ドラマがあるんだろうな。
そして皆もその経験を糧に、色んなことへトライしてもらいたい。
普段はなかなか出来ない部内戦を行う。
俺が高校の時にも、何度か部内戦を行なった。
俺の部内戦の戦績?
高校テニス部時代、負け無し!
入学して最初の部内戦で全勝してナンバー1となり
引退するまでその座を誰にも譲らなかった。
こう書くと華やかに高校テニス界にデビューしたような
感じに思えるかもしれないが、実際のところは
もっと泥臭く、カッコイイものではない。
そもそも俺が入った高校のテニス部には一つ上の
2年生が一人もいなかったので、まずは新入生だけの
部内戦だったし、その新入生は俺も含めて皆初心者。
その中でも俺は両親がテニスやっていたから、初心者と
言えども、年に数回はラケットでボールを打ったことが
あったから、その分だけ皆よりアドバンテージあって
ナンバー1になれたのだ。
でもこの一回目の部内戦の思い出はあまりない。
なんとなく皆で試合をやって、なんとなく勝った感じ。
一番印象に残っている部内戦は2年生になってからだ。
新一年生も交えての戦いなんだけど、それまで1年間
ナンバー1の座を守り通してきた俺としては、絶対に
負けられない戦いで、凄いプレッシャーだったのだ。
学校にはコートが2面しか無いから、部内戦は近くの公営の
コートを借りて行われた。
上位の5名でリーグを行い、最下位の人は更に下のリーグの
勝者と入れ替え戦を行う。
1年間ナンバー1を守り抜いた・・・と言っても、弱小テニス部の
ことだから、そんな大したテニスが出来るわけじゃない。
それはまさに、どんぐりの背比べであった。
それでも俺は「俺がナンバー1なんだ!!」って何度も自分に
言い聞かせて頑張った。
頑張った・・・と言っても、出来ることと言えば繋ぎ続けるだけ。
いつもは打ち抜く練習ばかりやってるクセして、こういう試合に
なると、バックだけでなくフォアまでもスライスで繋ぐしか
出来なくなるのだ。
でもどんぐりの背比べだから、相手も同じこと。
二人とも腕を縮こませて、ショートラリーのように繋ぎながら
シングルスをして相手のミスを待ち続ける。
そして相手がミスすると、まるでスーパーショットを決めた
選手のように「よっしゃー!!!!」と叫ぶ。
ピンチの時のセカンドサーブはもちろんアンダー。
そんなテニスで次々相手を倒したが、うーん・・・どれも
7-5とか6-4みたいな接戦だったと思う。
ほんのちょっとだけ俺の方が我慢強くて、体力があっただけ。
おかげでその部内戦も制して、ナンバー1の座を勝ち取ったのだ。
弱小テニス部のナンバー1という座。
そんな内容のテニスだったから、大して価値は無い・・・なんて
ことはなかったのだ。
ナンバー1になった俺は、とにかくその座を守るために
毎日のランニングを頑張った。
高2の夏休みに初めて体験したテニスコーチのバイトも
ナンバー1というプライドがあったから何とかトライできた。
自分のテニスには全然自信は無かったけど、俺は
この高校のテニス部ナンバー1なんだって、常に思うことで
前に進むことが出来た。
どんぐりの背比べでも、一番になったどんぐりはやっぱり
誇る権利があるわけだし、それをキッカケにして世界が
広がる可能性が出てくる。
そして俺はその後、テニスコーチに就職し、そこから
選手になり、プロになり、引退後もこうやってテニス業界に
飯を食うことが出来ている。
たかだか無名の高校の部内戦。
戦っている選手も無名だし、レベルも大したことない。
だけど戦っている選手たちは真剣だ。
「負けたくない」「勝ちたい」その気持ちがグルグル回り続け、
吐き気がするほどの精神的苦痛に襲われながら、
コートに立っているのだ。
俺はたまたま全勝という記録を作れたけど、負ける可能性も
十分にあった。
負けて、ナンバー1から転落していたらどうなっていただろう。
その悔しさをバネにして更に頑張っていたかな?
自暴自棄になって、テニスなんて辞めていたかも。
でも間違いなく、部内戦でナンバー1を勝ち取ったことで今がある。
高2までアンダーサーブ使わないとセカンドが入らなかったという
技術は明らかに練習不足なので反省しないといけないが、
それを使ってでも勝ちたいって、プライド捨てて思った当時の
自分には今でも「ナイス!」って思う。
全国のテニス部で行われている部内戦、それぞれ奥の深い
ドラマがあるんだろうな。
そして皆もその経験を糧に、色んなことへトライしてもらいたい。
もっと暑くなれ~、もっと風よ吹け~[てにすまん 高西ともブログ]
投稿日時:2012/07/12(木) 08:47
テニスは高校からスタートした・・・という事が、
選手時代はいつも頭の片隅にあった。
だって周りは小学生、遅くても中学生から始めた
選手ばかりだし、インハイ、インカレ、全日本ジュニア出場
なんて珍しくない。
皆幼少の頃からお知り合いって感じだからね。
やっぱり子供の頃からテニスやっている選手って
打ち方に何か独特な柔らかさというか、しなやかさを
感じた。
そのしなやかな打ち方だとやっぱりショットの質も
違ってくるのだ。
「そんなショットを打ってくる相手とまともに打ち合っても
勝てるわけがない」
いつもそう思っていた俺だけど、だからと言って
負けたくはなかった。
高校生の頃は「無理!勝てない!」って思ったけど
色んな経験を積んでいくと、劣等感は常に感じながらも
「でも勝負は勝ってやる」という気持ちに燃えていた。
ショットの質では勝てない・・・となると、何で勝負するかと
いうと戦術である。
でも最初の頃は、ネットプレーもイマイチだったし、
戦術もそんなにいいのが思い浮かばない。
残念ながら、戦術で勝負は出来なかった。
ショットの質は自信無い、戦術も浮かばない。
そうなると何を頼りにするようになるかと言うと、
天候だった。
夏の暑い日には「もっと暑くなれ!!」って願い、
風の強い日には「もっと激しく吹き荒れろ!!」って祈った。
自分のテニスには自信が無いもんだから、何か第三者的な
ことが相手の足を引っ張ってくれないかなって思うように
なったんだよ。
でもそういう考え方を身に付けたおかげで、逆に夏の暑さも
強い風にも、自分自身はストレスを感じないようになった。
しかも、相手が何を嫌がるのか・・・ということを注視する癖が
付いたから、後に色んな戦略を考えられるようになった時、
どの作戦が相手に効いているのか分かるようになった。
もし、最初から誰にも負けないずば抜けた最高のショットを
持っていたら、そういう考えや観察力は身に付かなかったかもね。
未だにテニスで対戦している相手が「暑い!」とか、「眩しい!」とか
ネガティブなコメントを発するとワクワクしてしまう。
自分も暑くて眩しいんだけど、自分のことより相手だよ。
それがテニスには重要なんだって今はそう思っている。
選手時代はいつも頭の片隅にあった。
だって周りは小学生、遅くても中学生から始めた
選手ばかりだし、インハイ、インカレ、全日本ジュニア出場
なんて珍しくない。
皆幼少の頃からお知り合いって感じだからね。
やっぱり子供の頃からテニスやっている選手って
打ち方に何か独特な柔らかさというか、しなやかさを
感じた。
そのしなやかな打ち方だとやっぱりショットの質も
違ってくるのだ。
「そんなショットを打ってくる相手とまともに打ち合っても
勝てるわけがない」
いつもそう思っていた俺だけど、だからと言って
負けたくはなかった。
高校生の頃は「無理!勝てない!」って思ったけど
色んな経験を積んでいくと、劣等感は常に感じながらも
「でも勝負は勝ってやる」という気持ちに燃えていた。
ショットの質では勝てない・・・となると、何で勝負するかと
いうと戦術である。
でも最初の頃は、ネットプレーもイマイチだったし、
戦術もそんなにいいのが思い浮かばない。
残念ながら、戦術で勝負は出来なかった。
ショットの質は自信無い、戦術も浮かばない。
そうなると何を頼りにするようになるかと言うと、
天候だった。
夏の暑い日には「もっと暑くなれ!!」って願い、
風の強い日には「もっと激しく吹き荒れろ!!」って祈った。
自分のテニスには自信が無いもんだから、何か第三者的な
ことが相手の足を引っ張ってくれないかなって思うように
なったんだよ。
でもそういう考え方を身に付けたおかげで、逆に夏の暑さも
強い風にも、自分自身はストレスを感じないようになった。
しかも、相手が何を嫌がるのか・・・ということを注視する癖が
付いたから、後に色んな戦略を考えられるようになった時、
どの作戦が相手に効いているのか分かるようになった。
もし、最初から誰にも負けないずば抜けた最高のショットを
持っていたら、そういう考えや観察力は身に付かなかったかもね。
未だにテニスで対戦している相手が「暑い!」とか、「眩しい!」とか
ネガティブなコメントを発するとワクワクしてしまう。
自分も暑くて眩しいんだけど、自分のことより相手だよ。
それがテニスには重要なんだって今はそう思っている。
忘れられない社会人デビュー戦[てにすまん 高西ともブログ]
投稿日時:2012/06/28(木) 02:00
高校卒業して18才で入社したテニスコーチの会社には
選手兼コーチとして試合に出場しながらコーチ業をしている
人がたくさん在籍していた。
入社する前に面接で上京したときにも、色んなコーチと
練習させてもらったんだけど、全然歯が立たなかった。
これは凄い環境に身を置くことになるな・・・と気合入れて
入社したんだけど、初めてちゃんと1セットマッチで試合を
させてもらったのは、入社して1週間も経たないある日曜の
午後だった。
相手は誰かというと、先輩も先輩、大先輩のコーチで
俺より20才も年上の方。
おまけに身長がかなり低いし、使っているラケットもかなり
古いときた。
「ん?高西って言うの?よろしく。」
温厚そうにニコニコしているこのおじさんコーチを見て
俺は「この人には勝てる」そう思った。
試合前のアップの段階でもさほど速いショットは打たない。
俺の方が何倍も迫力あるぜ!!とばかりに、練習の
段階で俺のパワーショットを見せつけてやった。
しかし・・・実際試合が始まると、見事なまでに完敗。
6-0で負けたんだけど、取ったポイント数も数ポイント。
デュースにも持ち込めなかったのだ。
ま、見た目は小さくて古臭いラケットを持っているオジサン
なので、一見弱そうに見えるのだが、実際には
ベテランテニスでしっかり全日本に出場するほどの
実力を持った方で、単に俺の見る目が無さ過ぎたってのもある。
しかしその方、その試合後に今やった試合のことで話を
してくれたんだけど、そのテニスの話が素晴らしかったのだ。
試合後、俺の悪いところを徹底的に言われて怒られると
思っていたら、その方、叱るどころか自分の欠点の話を
ずっとしてくれたのだ。
例えばフォアハンドが弱いから、無理させないでしっかりと
ロブだけはきっちり上げられるようにしておいた・・・とか、
速いショットが打てなくて困っているから、何とか自分の
ショットを速く見せようとスライス混ぜるなどして、色々
工夫してみた・・・とかね。
とにかく自分には欠点がたくさんあるから、それを
どう扱うか考えてプレーしたということを聞かせてくれた。
その話、とても素晴らしかったのだが、25才を過ぎる
頃になってやっとジワジワ心の中に染みてきたのだ。
それまでは自分の長所をいかに伸ばし、それを見せ付けて
戦うことばかり考えてやってきた。
でもテニスってそれも必要だけど、当然長所があれば
短所もある。
その狙われる短所をどう扱っていくか・・・が大事だし、
その短所が簡単には崩れないというのは、実は長所が凄いって
ことよりもポイントに結びついたりするのだ。
でも、残念ながら入社して初のマッチ練習を、完膚なきまでに
叩きのめされて0-6で終えた俺は、そんなありがたいお話を
頭の中で噛み砕いて理解するほど余裕はなく。
「なんでこんな人に負けたんだ!見てろ!俺のフォアを
もっと強いショットにしてやる!!」って思っていたんだよ。
全く短所と向き合い、それをどう扱うかなんて考えもしなかった。
ま、そういう事も大事だけどね。
でも、その時に感動してすぐ取り入れたこともある。
それはその時俺に話をしてくれた態度。
メチャクチャなテニスやって、結局ミスばかりだった俺は
「絶対怒られる」って思っていた。
しかしそんな俺に対して、「もっとこうやれよ!!」っていう
言い方ではなく、「俺だったらこうするんだけどね」って
いう感じの伝え方。
命令口調ではなく、一つの提案をしてそれを選んでもらう
というやり方は、アドバイスを受ける側としてはとても印象に
残ったのだ。
テニスは見た目じゃない・・・というのも学んだし、
オジサンって手強いんだって事も理解した。
とにかく、上京して初めてのマッチ練習は多くの事を
学ぶことが出来た記念すべき戦いでありました。
選手兼コーチとして試合に出場しながらコーチ業をしている
人がたくさん在籍していた。
入社する前に面接で上京したときにも、色んなコーチと
練習させてもらったんだけど、全然歯が立たなかった。
これは凄い環境に身を置くことになるな・・・と気合入れて
入社したんだけど、初めてちゃんと1セットマッチで試合を
させてもらったのは、入社して1週間も経たないある日曜の
午後だった。
相手は誰かというと、先輩も先輩、大先輩のコーチで
俺より20才も年上の方。
おまけに身長がかなり低いし、使っているラケットもかなり
古いときた。
「ん?高西って言うの?よろしく。」
温厚そうにニコニコしているこのおじさんコーチを見て
俺は「この人には勝てる」そう思った。
試合前のアップの段階でもさほど速いショットは打たない。
俺の方が何倍も迫力あるぜ!!とばかりに、練習の
段階で俺のパワーショットを見せつけてやった。
しかし・・・実際試合が始まると、見事なまでに完敗。
6-0で負けたんだけど、取ったポイント数も数ポイント。
デュースにも持ち込めなかったのだ。
ま、見た目は小さくて古臭いラケットを持っているオジサン
なので、一見弱そうに見えるのだが、実際には
ベテランテニスでしっかり全日本に出場するほどの
実力を持った方で、単に俺の見る目が無さ過ぎたってのもある。
しかしその方、その試合後に今やった試合のことで話を
してくれたんだけど、そのテニスの話が素晴らしかったのだ。
試合後、俺の悪いところを徹底的に言われて怒られると
思っていたら、その方、叱るどころか自分の欠点の話を
ずっとしてくれたのだ。
例えばフォアハンドが弱いから、無理させないでしっかりと
ロブだけはきっちり上げられるようにしておいた・・・とか、
速いショットが打てなくて困っているから、何とか自分の
ショットを速く見せようとスライス混ぜるなどして、色々
工夫してみた・・・とかね。
とにかく自分には欠点がたくさんあるから、それを
どう扱うか考えてプレーしたということを聞かせてくれた。
その話、とても素晴らしかったのだが、25才を過ぎる
頃になってやっとジワジワ心の中に染みてきたのだ。
それまでは自分の長所をいかに伸ばし、それを見せ付けて
戦うことばかり考えてやってきた。
でもテニスってそれも必要だけど、当然長所があれば
短所もある。
その狙われる短所をどう扱っていくか・・・が大事だし、
その短所が簡単には崩れないというのは、実は長所が凄いって
ことよりもポイントに結びついたりするのだ。
でも、残念ながら入社して初のマッチ練習を、完膚なきまでに
叩きのめされて0-6で終えた俺は、そんなありがたいお話を
頭の中で噛み砕いて理解するほど余裕はなく。
「なんでこんな人に負けたんだ!見てろ!俺のフォアを
もっと強いショットにしてやる!!」って思っていたんだよ。
全く短所と向き合い、それをどう扱うかなんて考えもしなかった。
ま、そういう事も大事だけどね。
でも、その時に感動してすぐ取り入れたこともある。
それはその時俺に話をしてくれた態度。
メチャクチャなテニスやって、結局ミスばかりだった俺は
「絶対怒られる」って思っていた。
しかしそんな俺に対して、「もっとこうやれよ!!」っていう
言い方ではなく、「俺だったらこうするんだけどね」って
いう感じの伝え方。
命令口調ではなく、一つの提案をしてそれを選んでもらう
というやり方は、アドバイスを受ける側としてはとても印象に
残ったのだ。
テニスは見た目じゃない・・・というのも学んだし、
オジサンって手強いんだって事も理解した。
とにかく、上京して初めてのマッチ練習は多くの事を
学ぶことが出来た記念すべき戦いでありました。
あんちゃんという後輩[てにすまん 高西ともブログ]
投稿日時:2012/06/25(月) 10:57
あんちゃんと呼ばれる後輩がいる。
以前俺が勤めていたテニスコーチの会社の後輩で、
俺が1年間スペインで選手活動した後派遣先として
新たな本拠地となった昭和の森テニスクラブで
最初にマッチ練習をしたのはあんちゃん。
その時は帰国してから殆ど練習できていなかったことと、
スペインに行っていた事で気合が入り過ぎて、空回り気味
だったことで、タイブレークまでもつれるという展開に
なってしまったけど、さほど上手い選手ではなかった。
でも人なつっこくて真面目な性格の彼とは気が合って
毎日のように遊んでいた。
そんなあんちゃんとは練習もしょっちゅうしていた。
帰国直後のマッチ練習は競ったけど、その後は殆ど
相手にもならない感じ。
精神的にも不安定だし、ショットもさほど目立つものを
持っていない。
下手ではないけど、それ以前にテニスに対して熱い
気持ちなんかも感じられないから、彼のテニスに関しては
そんなに今後のプレーは楽しみでは無かったし、
彼自身も自分には期待はしていない感じではあった。
しかしその後会社のナンバー1だった俺のテニスを
遥かに上回る選手が新たに入社して、その彼も昭和の森に
配属となった。
俺とあんちゃんとその新しい選手とはすぐ仲良くなり、
3人で一緒に遊ぶだけでなく、当然練習も行なったし、
遠征にも行くようになってくると、徐々にあんちゃんの
心の中にも「俺も選手として活躍したい」という気持ちが
芽生えてきたように感じた。
あんちゃんと出会ってから2年後、俺が2回目の
スペイン選手活動をして日本に帰国すると、あんちゃんも
「スペインに行きたい」と言い出した。
練習もトレーニングもストイックに頑張り始める。
元々真面目な性格なので、のめり込むと人一倍頑張る彼は
性格までちょっとピリピリし始めた。
そしてお金を貯めて彼も1年間のスペインテニス留学を
実現させたのだ。
帰国後、彼のテニスは大きく成長していた。
俺もそうだったんだけど、まずしっかりとディフェンスを
覚えたあんちゃんは手ごわい相手となっていた。
もともと足も速かったし、器用な一面もあったから、
走り回りながらランニングショットで鋭いパッシングを打つなど、
カウンター系のショットが磨かれたあんちゃんは、
試合でもどんどんランキングを上げて、遂には
俺の最高ランクを抜いて全日本ランキングも50位台まで
上がっていった。
練習では俺とたくさんマッチ練習したあんちゃんだけど、
一度だけ試合で対戦したことがある。
相手を切り崩してポイントを重ねるパターンを用いる俺の
テニスだが、その時は何をやってもあんちゃんを崩せなかった。
それはあんちゃんが完璧だったのか、それとも後輩のあんちゃんに
負けたくないという感情が邪魔して俺自身が力を発揮
出来なかったからなのか、とにかく結果は惨敗。
若い頃キレまくった思い出は多いが、その歳になってから
感情が爆発するような悔し過ぎてキレまくった試合は、
この時だけ。
それくらい、彼に追いつかれ、そして抜かれていった事を
試合中に見せつけられたことが悔しかった。
でもその頃にはあんちゃんのテニスは多くの選手達に
認められていたし、俺自身も皆に「あんちゃん強くなったよ!!」
って言っていたんだけど、まだまだ心の中では「認めたくない」
って思ってたんだね。
こうやって本番の試合で見せ付けられてやっとそのくだらない
俺のプライドが剥がれ落ちた。
でもその試合で惨敗するまでは、そのくだらないプライドが
あったおかげで、あんちゃんが急激に伸びている時期に、
俺もあんちゃんに負けたくないって思って成長できた気もする。
最後は抜かれたけど、結局は彼の存在に感謝すべきことは
多いって今では感じている。
以前俺が勤めていたテニスコーチの会社の後輩で、
俺が1年間スペインで選手活動した後派遣先として
新たな本拠地となった昭和の森テニスクラブで
最初にマッチ練習をしたのはあんちゃん。
その時は帰国してから殆ど練習できていなかったことと、
スペインに行っていた事で気合が入り過ぎて、空回り気味
だったことで、タイブレークまでもつれるという展開に
なってしまったけど、さほど上手い選手ではなかった。
でも人なつっこくて真面目な性格の彼とは気が合って
毎日のように遊んでいた。
そんなあんちゃんとは練習もしょっちゅうしていた。
帰国直後のマッチ練習は競ったけど、その後は殆ど
相手にもならない感じ。
精神的にも不安定だし、ショットもさほど目立つものを
持っていない。
下手ではないけど、それ以前にテニスに対して熱い
気持ちなんかも感じられないから、彼のテニスに関しては
そんなに今後のプレーは楽しみでは無かったし、
彼自身も自分には期待はしていない感じではあった。
しかしその後会社のナンバー1だった俺のテニスを
遥かに上回る選手が新たに入社して、その彼も昭和の森に
配属となった。
俺とあんちゃんとその新しい選手とはすぐ仲良くなり、
3人で一緒に遊ぶだけでなく、当然練習も行なったし、
遠征にも行くようになってくると、徐々にあんちゃんの
心の中にも「俺も選手として活躍したい」という気持ちが
芽生えてきたように感じた。
あんちゃんと出会ってから2年後、俺が2回目の
スペイン選手活動をして日本に帰国すると、あんちゃんも
「スペインに行きたい」と言い出した。
練習もトレーニングもストイックに頑張り始める。
元々真面目な性格なので、のめり込むと人一倍頑張る彼は
性格までちょっとピリピリし始めた。
そしてお金を貯めて彼も1年間のスペインテニス留学を
実現させたのだ。
帰国後、彼のテニスは大きく成長していた。
俺もそうだったんだけど、まずしっかりとディフェンスを
覚えたあんちゃんは手ごわい相手となっていた。
もともと足も速かったし、器用な一面もあったから、
走り回りながらランニングショットで鋭いパッシングを打つなど、
カウンター系のショットが磨かれたあんちゃんは、
試合でもどんどんランキングを上げて、遂には
俺の最高ランクを抜いて全日本ランキングも50位台まで
上がっていった。
練習では俺とたくさんマッチ練習したあんちゃんだけど、
一度だけ試合で対戦したことがある。
相手を切り崩してポイントを重ねるパターンを用いる俺の
テニスだが、その時は何をやってもあんちゃんを崩せなかった。
それはあんちゃんが完璧だったのか、それとも後輩のあんちゃんに
負けたくないという感情が邪魔して俺自身が力を発揮
出来なかったからなのか、とにかく結果は惨敗。
若い頃キレまくった思い出は多いが、その歳になってから
感情が爆発するような悔し過ぎてキレまくった試合は、
この時だけ。
それくらい、彼に追いつかれ、そして抜かれていった事を
試合中に見せつけられたことが悔しかった。
でもその頃にはあんちゃんのテニスは多くの選手達に
認められていたし、俺自身も皆に「あんちゃん強くなったよ!!」
って言っていたんだけど、まだまだ心の中では「認めたくない」
って思ってたんだね。
こうやって本番の試合で見せ付けられてやっとそのくだらない
俺のプライドが剥がれ落ちた。
でもその試合で惨敗するまでは、そのくだらないプライドが
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多いって今では感じている。
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